2007年02月27日

田原総一朗さんに物申す



サブタイトル
井上から敬愛する田原氏への手紙




前略 田原総一朗様

突然のお手紙、失礼とは存じますが、最後まで、お読みいただければ幸いです。
手紙の途中、不適切な言い回し、放送用語に掛かるような表現がございましたら、番組、否、手紙の最後にお詫びを入れさせて頂きますので、ご了承下さいませ。

さて・・・早速、本題に入らせていただきます。
日曜朝のテレビ番組で「武士道精神の復活を謳っている奴は駄目なんだ」みたいな事、仰ったらしいですね。

小生、武士道精神ではなく、
武道精神の推進を謳っているだけに少々気になります。

田原さん、あなたが言うと、影響力ありすぎです。
軽々に言って欲しくなかったなぁ。

いつも、あなたの辛口トークが好きで、番組は見ているんだけど、この日はたまたま前回のブログ『迷い』を書いている最中で見逃してしまったのです。
知人から、聞いた話なんだけど、番組内でチラチラと武士道精神を皮肉っておられたとかで、非常に残念です。

そこで、小生がなぜ、
武士道精神を源とする武道精神を常に掲げるかを話したいと思います。

あ、その前に、軽いタッチのブログが好きな方、
また、ナガク、シツコクなりそうですけど、なるべく簡潔に致しますので、最後まてお付き合い下さい。

え?・・・今、誰と話しているんだ、ですって?
あのね、田原さん、時々、小生は脱線しますけど、ぜーんぜん気にしないで・・・。
は? 気になる?田原さん、あなたも朝まで生テレビで、充分脱線してますから、人のことは気にしないッ。
ハイ、コマーシャル行こう、じゃなく、本題に行こう。

小生が、
なぜ、
武道精神を常に掲げるか、の話です。
田原さんは、
「武士道精神は徳川幕府の後期にサラリーマン化した武士社会を統率するために生まれたもので、日本古来の精神ではない」
と、そのようなことも仰ったそうですね。

そこです。そこを軽々に言って欲しくないのです。

確かに、『武士道』を著した新渡戸稲造でさえ、
明治中期、海外へ出た時、日本人の根本精神とは何か?
と自問したほどですから、
文章化された武士道はなかったのでしょう。
ただし、すでに『葉隠れ』は存在していますよ。
しかし、『葉隠れ』は佐賀藩の内部の出版物であり、
明治のあの時期、全国的規模で『武士道』を表現した出版物は存在していなかったのです。

だからこそ、新渡戸稲造は、
西洋の『騎士道』に対して、
日本には誇るべき『武士道』があるとの思考に至り、
『Bushido The Soul of Japan(武士道)』を著し、
世界的ベストセラーになったのです。
ただし、
新渡戸稲造の純粋な思いとは裏腹に、
世界の読者たちの中には、
日露戦争の勝利の背景には『武士道』の精神があったのではないか、と捉えてしまう人たちがいたのです。
更に、日本が、そのベストセラーとなった本を逆輸入して、
明治政府が軍事的に利用価値ありとして、取り入れてしまったから、武士道本来が持つ精神の歪曲が始まってしまったわけであります。

そんなことはどうでもいいんだよッ!
ですって? 田原さん、怒らない怒らない。

問題は武士道精神で、
今の日本を救えるのか、どうかという事なんです。
田原さん、あなたは、救えない、と仰ったのでしょう?
今、小生が話しているんですから、司会者は割り込まないで聞いて下さい。

続けます。
閣僚が、政治家が、公務員が、
不祥事を連発!
教育委員会が、教師が、
いじめ問題を隠蔽!
親子が、兄妹が、子供同士が、
殺人を犯す!

次から次へと、モラルの欠片もない、信じられない事件や犯罪を生み出しているのが、今の日本です。
この現状を、なんとかしなければいけないのです!

『国家の品格』の著者も言っていますが、
もう、今の大人では浄化できないところまで来ています。
そうかといって、次世代の子供たちに、その“負の遺産”を残すようなことだけは許されません。

こんな時代だからこそ、
子供たちに、
日本古来からあった道徳を、
伝えていかなければならないのです。
何か他に、誇れる道徳・モラルがありますか、田原さん?

あれば、それを声を大にして謳って下さいな。

小生は、
心底から、子供たちの将来を危惧しています。
だからこそ、
武士道を源とした武道の中に、
救いとなる“道徳”、伝承すべき“精神”が、
内在していると言い続けているのです。
空手だけじゃない。
剣道、柔道、弓道等々、
武道精神を探究している専門家が、
各地域の学校に、
土曜だけでも、月一回でもよいから、
指導に出向き、武道を通して、
痛み、苦しみ、辛さ、怖さ、を実体験を通して教え、
人に対する慈しみを教えるべき時なのです。

田原さん、
あなたが武士道精神を批判する気持ちは判ります。
おそらく、当道場の名誉顧問の神波先生が、
「武士道というものは、封建社会の悪しき遺物だから、子供の教育論に持ち込むと矛盾を来たす」
と小生に言われたのと、同じでありましょう。
その後、神波先生はご理解をされ、名誉顧問まで引き受けていただくことになったのですが、
田原さん、詳しくは『武士道精神は悪しき遺物か』のブログと『武道精神と学校教育』のブログを見て下さい。
多少は、ご理解をいただけるかと思います。

小生は、
武士道にある『忠』を“まごころ”と解釈し、
七つの精神支柱として打ち出しています。
『忠』は解釈によっては、
上意下達の権力主義に陥ってしまうから、
“まごころ”と解釈したのです。

『忠』が問題なのです。

その『忠』を、
明治政府が、軍部へ、さらに天皇への忠誠心として、
武士道の精神主義を、軍部の精神主義へと、
歪曲させたのが、大きな過ちだったのであります。
日本政府は
第二次大戦で大敗を喫するまで、
そのことに気がつかず、
若者たちを戦争へと駆り立てていってしまったのです。

田原さん、
この責任は、武士道には、ありませんよ!

あなたは、武士道は日本古来の道徳感ではない、と思っておられるようですが、果たして、そう言いきれますか?

我々の祖先たちは、
日本各地で土地を耕し、それを管理し
妻や子、そして、一族を守ろうと規律を作った。
つまり、自分たちの土地を侵略から守るために、
生きるか死ぬかの戦いをしなければならず、
結束するための規律や約束事が生まれた、
おそらく、それが武士道の元でありましょう。

古より、世界中の人間は、戦いを強いられてきた。
だから、それぞれの土地土地で、宗教や思想が生まれた。

日本の武士道も同じです。
しかし、
世界を見て下さいよ。
宗教の違いで、民族の違いで、思想の違いで、
テロや紛争や戦争が絶えることなく勃発しています。

日本人は、好戦的ですか?
武士道が生まれた日本人は殺戮を好んでいますか?
いませんよ、田原さん!

武士道といえば、
主君への忠誠心で殺戮が許される規律、
と勘違いされる方が沢山いらっしゃいますが、
誤解しないで欲しい!

そもそも、
武の字は、二つの戈(ほこ)を止める、という意味があります。
双方の争いを止めさせるためにあるのです。
武、とは、本来が、平和的な規律を宿しているのです。

『忠』だけです。
この『忠』だけが、権力者に利用されれると、とんでもない悲劇を生んでしまうのです。
田原さん、あなたも映画監督志望だったのだから、『切腹』や『武士道残酷物語』を見ているでしょう。
あれが、『忠』の悲劇なのです。

規律も、規範も、常識も、
歴史という時代の流れの中で変化していきます。

ならば、『忠』の解釈も同じです。
主君への『忠』ではなく、
人への『まごころ』と解釈すれば、
争いの悲劇も止められるのではないでしょうか。

日本各地で、
武士道的な規律が生まれはじめた時代・・・、
この『忠』のための“争い”さえなければ、
それこそ、美しい国だった筈です。

人々の心は、
清らかに澄みきっており、
汚れなく、潔い世界があった、
と小生は、想像できます。
田原さん、
あなたは、どうですか?
小生のように想像できませんか?

日曜の番組では、
「武士は食わねど高楊枝じゃ、飢えるし、やられてしまう」
みたいなことも仰っていたそうですね?

あのね、田原さん。
『武士は食わねど高楊枝』とは、
何も、やせ我慢のことを言っているのではないんですよ。
『例え貧乏でも、空腹でも、お腹いっぱいの気持ちでいよう。
心根のある人は、人としての誇りを汚してはいけない』
そういうことを指しているのです。

同類の諺に、
『渇しても盗泉の水を飲まず』
『鷹は飢えても穂をつまず』
などがあります。
これは、どういうことか?
つまり、
『どんなに苦しくて、困っていても、人としての節度を守り、決して不正な行いをしない』
ということなんです。

今の世の中、
すべての人々に、
そういうことが大切なんだ、
と言って下さいよ、田原さん!

武士道を、
「あんなものは精神論で、政治や経済に持ち込むことなんて下らないナショナリストの発想だ」
などと思ってほしくはない!

武士道精神を、武道精神を正しく理解し、
それを自己の生き様の根幹においている人々は、
間違いなく、平和志向です。
そして、人として慈愛がある!
心根が腐ってはいない!

だから、
武士道精神、武道精神が
今の世の中に必要なのです!

なんか、他にありますか、田原さん?
どうしたら、いいのですか、田原さん?

あなたには、答えがあるようで、実はない。
違いますか?
ジャーナリストとして、
批評、評価、提言、はできるが、
こうすべき、という“実践”は生涯なさらない方でしよう。

小生は、
小さいながらも道場を通じて、
自分の身の丈にあった形で、
真摯に、全力を尽くして、“実践”していますよ。

それとも、田原さん、
都知事に立候補して、“実践”してみせますか?
あなたは分を弁えた方です。
間違っても、立候補はしないでしょう。
そうです。
ジャーナリストとして、
辛口の提言を続けられることが賢明だと思います。

しかし、
今回の、武士道精神の辛口批判は、的を得てはいませんでしたね。
非常に残念であります。
小生、あなたを敬愛しておるのです。
だからこそ、
非礼を承知の上、このような手紙をしたためさせて頂いたのでございます。

おそらく、
もう、充分に、ご理解をいただけたかと存じますので、
この辺で失礼させていただきます。
時節柄、お風邪などひかれぬようお祈り申し上げます。

尚、
番組の中、否、手紙の中で、不適切な発言がありましたら、
ここでお詫び申し上げます。

               井上誠吾 拝


追伸
もし、都知事選に出たら、サプライズですよ。
大喜びしますよ、マスコミは!
小生は、落胆しますけど。



posted by 井上誠吾 at 11:44| 日記

2007年02月25日

迷い


迷走しています。
政治が、経済が、社会が・・・そして、人々が!

この世の中には、迷走する様々な要因が蔓延しています。
しかし、
だからといって、
そのウイルスに負けてなんかいられない!

正直いって、
小生自身、このブログでは、
いかにもご立派な“御託”を並べさせて貰っていますが、
迷いもあれば、悩みもあれば、煩いもあります。

そんな人間だからこそ、
武道、即ち、空手、
の持つ精神を必要として、日々を生きているのです。

道場、という場所は、
突き技、蹴り技を覚え、上手くなり、強くなるためだけにあるのではありません。
上手くなったって、強くなったって、級があがったって、段が上がったって、試合で勝ったって、偉いものではない!

そんなもの、潜在能力のある者、つまり、運動神経があったり、体力があったりする者が、少々鍛錬をすれば、すぐに到達するものです。
ましてや、強い者が偉い、と勘違いしてはいけない。
人は、
どのような天才であっても、
勝ち続けることなど、不可能です。
やがて、負ける時が必ずやってくるのです。
強い者が偉い、という、
そんな見当違いな価値観は捨て去るべきです。

真に、偉い人というのは、絶対に偉そうにはしません!

上手くなり、強くなり、
級や段が上がり、試合に勝った人たちこそ、
謙虚に姿勢を正し、人に手厚く、そして、やさしく、接していかなければならないのです。

道場にあって、本当に大切なことは、
今の自分より、
明日の自分のほうが、
精神的にも、肉体的にも、
強くなっていくことなのです!

時には、
思うように出来ないこともあるでしょう。
負けたり、悔しかったり、苦しかったり、痛かったり、怖かったりする時もあるでしょう。
その時に、どう気持ちを切り替える、かが大切なのです。

誰が偉いかって、
そこで踏ん張って、頑張る人が偉い人だ、と断言します!

それぞれ生まれ持った能力に差があるのは当然です。
特に、少年部の場合は、顕著です。

あの人は出来るのに、自分は出来ない、
というのではなく、
あの人が出来たから、自分も頑張ろう、
という、
前向きな気持ちを持つことが成長に繋がります。

小生、何が嬉しいかといえば、
出来ない子供が、涙を流しながら、頑張って、やっと出切るようになった時の、その子供の喜ぶ顔を見る時が、
何よりも、嬉しい瞬間であります。

人は、
この世に生きてきた意味が必ずある筈です。
一人ひとり、
それぞれに、
その人なりの意味が!

今日の自分よりも、
明日の自分が強くあろう。
自分なりに精一杯に生きていけば、
どんな人だって、周りの人を喜ばせることができる。

人は、
誰かの役に立つために生きている。
否、
そのために生かされている。

そう信じて、生きている人は、
例え、今、迷っていたとしても、
この先、ずっと、
迷い続けることなどはないでしよう。

共に精進です、押忍!



posted by 井上誠吾 at 11:48| 日記

2007年02月22日

豊かさとは何だ?  


『隣りの芝生は青く見える』
人の物がよく見えたり、珍しい物を見て欲しがったりする、という諺です。

人が、心の奥底に持っている欲や願望を見事なまでに言い当てています。

しかし、誰もが持っているけど、その欲や願望を剥き出しにして、本能の赴くままに行動することはありません。
人としての理性、が働くからです。

それにしても、
人の豊かさとは何なのでしょう。
その裏には、人のエゴ、心の荒廃があるように思えます。

真面目な理性人と本能丸出しのエゴ人。
殺伐とした世間を生み出しているのは、本能丸出しのエゴ人でしょう。
真面目な理性人は、その真面目さゆえに自我を出さず、生きる方向さえ見失っているように思えてしかたありません。

これでよいのでしょうか?
もっと、希望、生き甲斐、喜び、にあふれた社会であって欲しいものです。

かつて、
中流意識を持っていた団塊の世代のほとんどが、
今や、下流意識に転じている、
との記事が新聞の片隅に載っていました。
やがてくる老後に対する、
経済、病気、生活環境など、様々な不安要因から、
かつては中流を意識していた人たちが、
下流を意識するようになってきたのだと推測されます。

現代社会は、
もはや、老人たちにプラス思考を与えないほど、
邪悪に塗れてしまったのでしょうか。

真面目な理性人たちよ、強くあれ!
と言いたい。

自分に正直に、
人を傷つけることなく、
ああなってやる、こうなってやる、という、
夢や希望は絶対に捨てず、
信じた道を生きていくだけでいい、
それだけでいい。
例え、万が一、夢半ばに朽ち果てたとしても、
エゴ人たちは、
あなたの理性や良心までも犯す力など、
とうてい、持ち合わせてはいないのだから。

老若男女問わず、
信念を持ち、こころ豊かに生きること!
その毅然とした姿勢こそ、
どんな邪悪にも打ち勝つ慈力であり、
人として、最高、最良の生き方なのです!

以上、思うままに、
このところ、よく考えていることを書いてみました。
思い上がった、生意気なところもあるかも知れませんが、
これは、小生自身にも言い聞かせていることであり、
また、
小生の周りには、そんな苦しみを抱えている人たちもいます。

こころを込めて、
すべての真面目な理性人に捧げます。


押忍!




posted by 井上誠吾 at 11:40| 日記

2007年02月19日

爆笑!


前回のタイトル、
『vsk人の道 お詫びです 人の道で、焦った小生』

は、書いた覚えありません。

呆れて、一人で大洗い、
じゃない、大洗海岸に行って、どうすんだ?
呆れて、一人で大笑いしました。

お詫びです、を消して、
焦った小生、に書き直したのですが、
また、言うことをきかないのです、
パソコンのヤロー!

失礼しました。
悟り、悟り、悟り・・・。
そういえば、釈迦が言っています。
「悟ろう悟ろうと焦ると、悟り乞食になる」
と。

のんびり、行きます。

大爆笑してやって下さい。
トホホ・・・。
あと、何回、このようにパソコンとにらめっこするんだろう。



posted by 井上誠吾 at 14:33| 日記

vsk 人の道 お詫びです 人の道、で焦った小生


な、なんなんだッ?
人の道人の道、
て・・・な、なんで、なんでこうなるの?

ほんでもって消そうとしているのに、
消せないッ!
なんで?
なんで、消えないんだ、このパソコンは!

値切って買ったのが、いけなかった?

文章は深遠な世界を表現しようとしたのに、
タイトルが、
人の道人の道、
では、クドイ、シツコイ、オモシロイ。

そ、オモシロイ!
て、自分でウケて、どうすんだ。

さっき書いたじゃないか。
悟りの世界があることを〜ッ!
落ち着け、落ち着け、落ち着け〜ッ!



そうだ、道場へいこう。



今日も自分を叱咤して、
道場で冷や汗をかいこよう。

チャンチャン。
と、まぁ。
余計な改訂をしたばかりに、また、やってしまった時の、
小生の姿を表現してみました。

笑ってやって下さい。
トホホ・・・。



posted by 井上誠吾 at 14:17| 日記

人の道 人の道



自分の信じた道を進むということは、
ある種の勇気がいることだと思います。

必ず、
出る杭は打たれるし、
潰しにもかけられるし、
足も引っ張られます。

小生自身、五十四年間生きてきて、
そのような目に何度も遭遇してきました。

そのたびに、
自分の信じる道を進まず、して、どうする?
自分が信じていない別の道を、
誰かに気を遣いながら、生きるのでは、
そんな人生は死んでいるぞ、
と、己れに言い聞かせながら、奮起したものです。

人は、どう生きるべきのか?
どう生きれば、人が人として望ましいのか?

人の生き方は、美と醜、で決まると思います。

人として、醜く生きていきたくないものです。

美しく生きる方法、
があります。
武道です。

それは、
探究すれば、人の道、へと通じる奥深いものです。
生涯修行!
いつか、その深遠な悟りの世界に到達したいものです。

そのために、
自分を叱咤しながら、
今日も道場で汗をかいているのかも知れません。

押忍!



posted by 井上誠吾 at 11:24| 日記

2007年02月18日

善に報いる



ふと、
30年ほど前に出会った弁護士さんの事を思い出しました。
その弁護士さんは、
真・善・美の精神が大切だ、
と仰っていました。
確か、弁護士手帳か何かに書いてあったのを見せてもらったような記憶も残っています。

真とは、嘘偽りがない、
善とは、善い行い、
美とは、美しい生き方、
いずれも、武道精神に繋がっています。

その弁護士さんは、ご存命であれば、もう90才近いのではないかと思うのですが、
人が生きる事、
そのものを左右させる弁護士という職業だけに、
真・善・美を語られたのだと思います。


人は死に向かって生きています。
否、
何かを成すために生かされている、
という前向きな表現のほうが正しいのかも知れません。

生かされている、ということは、
小さな自分の善行が、
周りの人から、
さらに、その周りの人々へ広がり、
さらにまた、地域や社会へと広がっていき、
善い影響を及ぼしたり、
貢献していくことが大切なのではないでしようか。
つまり、“善の連鎖”です。

その逆の“悪の連鎖”もあります。
自分の“我見の怒り”が、
周りの人々へ広がっていき、不快にさせ、
さらに、地域や社会に悪い影響を及ぼしていき、
悲惨な事件や事故を引き起こしてしまう。

殺伐とした世の中を生み出しているのは、
このような、たった一人の、
“我見の怒り”なのかも知れません。

朝、気持ちよく、家を出て、
一日を快適に、
周囲に善い影響を及ぼせるよう過ごしたいものです。

仁・義・礼・忠・孝・勇・信、
には、善に報いる徳があり、方便があります。


posted by 井上誠吾 at 10:09| 日記

2007年02月12日

終末観・・・!?


温暖化の脅威が叫ばれています。
まだ2月だというのに、
体の方が、ふと気付くと、春を実感しています。
54年間生きてきて、初めての体験です。

空恐ろしくさえ感じます。

暑い時、涼しい時、寒い時、あたたかい時、
日本人は、
四季の移り変わりの美しさを感じて生きてきました。

春・夏・秋・冬は、
よく人の人生にも例えられます。
それは、
人の人生に、
良い時もあれば、悪い時もあり、
苦しい時もあれば、楽しい時もある。
だからこそ、人生に例えられるのだと思いますが、

このように季節感がずれてくると、
大自然界の怒りが、
小賢しく、ちっぽけで、傲慢な、人間共の喜怒哀楽など、
もう許さないぞ!
と怒っているのではないか、
と心底から、脅威を感じてしまいます。

大自然・・・否、地球・・・否、宇宙。
釈迦の説くところによると、
成・住・壊・空、の輪廻からいくと、
この宇宙の存在も、消える時がくるのでありますが、
絵空ごとではなく、近い将来に、その不幸が人類に及ぶのではないか、と心配になってきます。

そう考えると、昨今、世間を騒がしている、事件も、テロも、紛争も、戦争も、一瞬にして吹き飛んでしまうほどの、

無・・・!

の世界となってしまうのであります。

それは、やがて、必ず、くるのでしょうが・・・、
しかし、
今ではない!
近い将来でもない!
と希望を込めて叫びたい。
ヨハネの黙示録もノストラダムスの大予言も外れている。
少なくとも、
釈迦の言葉を信ずれば、
この先何万年かは、人類は生存できる筈であります。
そのためには、
人間同士が争っている場合ではない。

民族が違ったら、憎みあうのか?
思想が違ったら、睨みあうのか?
宗教が違ったら、殺しあうのか?

愚かなことです。
あまりにも、愚かなことです。
でも、哀しいかな、これが人間の世界なのです。

私の身近な人が、
日本人として生きているだけで、罪を犯している、
と言いました。
地球を蝕んできた点において、その通りであります。
日本人が、どれだけの森林を伐採してきたか、
日本人が、どれだけの二酸化炭素を出してきたか、
日本人が、どれだけのゴミや残飯を棄てているか、
挙げればキリがありません。

一人の日本人のエネルギー消費量を考えると、
生きているだけで、罪といえるでしょう。

だからこそ、いつまでも浮かれる日本人、ではいけない。

どうしたら、良いのか、考えましょうよ!
次の世代の子供たちのために!
すべての人々が、
真剣に、
人としてのあり方を、
考える時がきているのではないでしょうか。

人なんです。
小生は、
人として、どうあるべきか、が根本だと思っております。

先ずは、人としてのあり方を思考すべきです。
一人ひとりが、果たして、これでいいのだろうか?
そう考えるべき時がきているのです。

このままで、いいわけがない!

謙虚な姿勢があってこそ、初めて、
大自然に対して、真摯な対応ができるようになり、
力を合わせて、生きる知恵と努力が、
紡ぎ出されていくのではないでしようか。

武道精神には、
次の世代に残すべく生きる道標があります。
小生は、
それを信じています。

道場の門は、
民族、思想、宗教など関係がない、
どのような人でも門戸を開いております。
共に、空手の道、
つまり、“人の道”を探究していきましょう!

未来に希望を込めて、
押忍!

posted by 井上誠吾 at 10:55| 日記

2007年02月10日

人間性という魅力


昨夜、
“友遠方より来たる”
の書き出しで、ブログに書いて下さいよ。
と言われ、早速、書いています。

その遠方より来られた御仁とは、
横浜、福岡、長崎、天竺(インド)と、
今年になって、15回くらい飛行機移動をしたという、
国際的に大活躍されている医師であります。

え?・・・違う?・・・表現がオーバーすぎる?・・・なんだ、出張が多かっただけですか?
今、御仁から、そのようなご指摘を受けましたので、訂正させていただきます。

えーと、んー、
今年になって、えー、出張で、国際的に15回も好きな飛行機に乗れて、大感激をした医師、で、酢。・・・否、す。

と、これでいいですか?
え?・・・そんなとこで遊んでないで、またナガク、シツコクなるから先に進め、ですって?
了解しました。

そのT医師が道場に遊びに来られたのです。
T医師、久しぶりの稽古に、どこか嬉しそうでした。
誠真会館が創作した独自の移動稽古に戸惑い、
ミット稽古で張り切りすぎて股関辺りがツッてしまい、
スパーリングで後頭部をゴツンと蹴られ、
それでも、ニコニコと満面の笑顔!

こう書くと、
その医師、大丈夫か? 患者にはなりたくねぇー、
なんて、思う人もいるかもしれませんので、
誤解のないように、
医師としての腕は、空手の腕とは正反対です!

空手、下手なんだけど、好きなんですねぇ。
でも、T医師、大丈夫ですよ、
下手こそ物の上手なれ、あ、違った、
好きこそ物の上手なれ、という諺がありますから、
はい、大丈夫!
患者さんも大丈夫、安心して下さい!

で、稽古が終わったあとは、久しぶりの飲み会です。
そこで、知りました。
T医師が仕事を頑張って、成果を出されたことを!

現在、関西に長期出張されているのですが、
赴任された当初は、たった一人で、部下もなく、思うように医療活動ができないとの話しを聞いていたのですが、
今では、医療グループのトップだそうです。

えーと、なんて言われていると仰っていたんだっけ?
「親分」じゃない・・・「ボス」でもない、「大将」?「棟梁」?「大統領」?・・・違うなぁ。
思い出したッ。「組長」です。
そういえば、
「私、組長と呼ばれているんですよ」
と鼻の穴ふくらませて仰っておられました。

でも、良かったです。
“ローマは一日にして成らず”です。
たった一人から始まり、こつこつと頑張られたからこそ、
グループを率いていく立場になられたのですから、
とても素晴らしいことです。

人柄です。
人としての魅力があるからだと思います。
T医師と久しぶりに酒を酌み交わしながら、
なんだって、そうなんだ。
小生も、このまま頑張っていこう。
と勇気づけられました。

人として、
卑怯な生き方だけはするな!
人として、
美しい生き方を追究しろ!
これは、小生が好きな武士道の理念でありますが、
T医師との再会で、
そんなことを感じたのであります。

ちなみに、
以前、小生のブログを見て、
「アプローチのまったく異なる2つのブログが完成しました。まるでひらめの刺身とムニエルとが並んでいるようで、脱帽です」
とのメールを送っていただいたのが、T医師です。

そこことがあってか、
「盗作しては、いけませんよ」
と酒の席でクレームをつけられました。

それは、昨日書いた、

前半は、
老舗の頑固な板前が作った一品料理。
後半は、
冷蔵庫の生ゴミ寸前の残り物で小生が作ったハム炒飯。

この部分です。
盗作ですか?
その判断は、ここをご覧の皆さんにお任せします。

うい〜ッ 楽しい酒でした。
押忍! 

posted by 井上誠吾 at 11:27| 日記

2007年02月09日

武士道精神は悪しき遺物か?


今日はハッキリ言って、超〜カタイです。
カタイのが嫌いな方は、
後半に『○○○君との会話』を付録として加筆しましたので、どうか、それまでは我慢して、お付き合い下さい。

昨年のある日です。
小生が“尊敬する年配者”の方から、
「武士道というものは、封建社会の悪しき遺物だから、子供の教育論に持ち込むと矛盾を来たす」
とお叱りを受けました。

仰せの通です。
確かに、“悪しき遺物”の部分は多々あります。

しかし、小生は、
武士道精神を源とする武道精神の確かさを信じており、
当然、小生なりの持論を以下のように陳べさせて頂きました。

武士道精神が悪く捉われてしまうのは戦後です。
軍部が、大和魂や武士道精神を利用して、
国民に国家への忠誠心を誓わせ、
若者たちを戦争へと駆り立てていったこと、
に、端を発しています。

それは、時代を遡れば、
明治維新以降の富国強兵によって、
日本は帝国主義に走り、近隣諸国を植民地化していき、
上から物を見る征服的観念に支配されていったからです。

しかし、
それは極端なナショナリズムであり、
正しい解釈とは評しがたい、
と小生は思っております。

その誤解となる部分が、
武士道精神の中にある『忠』であります。

この『忠』こそ、
トップの人間のあり方次第で、
どのようにも捉えられ、
利用されてしまう危険性を孕んでいるのであります。

国家の為、会社の為、組織の為、
それらの為に『忠』を押し付ければ、
人ひとり一人が持つ、個の魅力が失われてしまい、
上意下達の封建社会的な状況が生じてしまうのであります。

誠真会館では、
忠を、人へのまごころ、と解釈いたしました。
小生には、上意下達的な傲慢な考えは一切ありません。

今、
教育の世界に必要なのは、
国から押し付けるような教育ではないのです。

戦後、つまり、1945年以降、
大和魂とか、
武士道精神とか、
そういった日本の道徳観念がないがしろにされ、
欧米主体の文化や生活様式へと移行されてきましたが、
日本人が伝承すべき良いものは沢山あった筈です。
何もかも捨て去る必要はなかったのです。

小生は、このように荒廃した、今こそ、
日本が誇るべき、時代に即した道徳規範を、民間人レベルで、文化的に、復活させることが大切だと信じて疑っていません。

こんな発言をすると、
「戦前に逆戻りする」
と反発してくる人も中にはいますが、
小生には、何一つとして、
逆戻りする要素など持ち合わせてはおりません。

小生はさらに、その“尊敬する年配者”に、
仁・義・礼・忠・孝・勇・信、といった武道精神の支柱を話していきました。

口角泡を飛ばすこと、約1時間。
小生が“尊敬する年配者”の方は、
やっと、理解をしていただき、
そして、深く共鳴していただいたのであります。

その“尊敬する年配者”とは、
誠真会館の名誉顧問になっていただいている、
神波史男先生であります。

以上、誠真会館が誕生するにあたり、
そのような激論があったこと、
理解していただければ、嬉しく思います。





さて、付録の『○○○君との会話』です。

まさか、武士道精神をいっきに飛ばして、いきなり、付録に来た人はいませんよね?
もし、おられるなら、戻って下さい。
付録は付録、ですからね。

ところで、あのカメダコウキ君、
先日、千代大海関と相撲の稽古したらしいですね。
そこで、相撲稽古を題材に付録を一つ書いてみました。


小生の道場にコウキ君が見学に来て、
「少年部の稽古な、相撲を取り入れたら、ええで」
「そういえば、テレビで、千代大海関が子供を相手に相撲を取ってたな」
「俺やソレ、子供ちゃうで」
「コウキ君でしたか」
「大きいな、関取な、やっぱ大きいで」
「大丈夫、コウキ君のビッグマウスこそ最大です」
「目の前で見たら壁やで」
「壁なことあるかい。どう見ても人間は人間たい」
「オッさん、例えで言うとんのや、例えで」
「あ、そうでっか。それはよかったばい。人間が壁に見えるようになったら、パンチドランカーの始まりだべさ」
「ナマリ、無茶苦茶や」
「ところで、関取とのガチンコ稽古はどうでしたか?」
「よかったでぇ、さすが、くにわざだけあるな」
「くにわざ? こくぎ、国技じゃないの」
「まぁ、そう読む人もおるな」
「おらんよ、コウキ君。君だな、路上に書いてある『近くに公園アリ』という字を『近くにハム園アリ』て呼んだの」
「次の相手はな、張り手でロープの外まで飛ばしたる」
「聞いてるの、公園をハム園、て呼んだの、君でしょ?」
「猫だましから、猫パンチもええかもな」
「あのね、だから、公をハム」
「オッさん、ごちゃごちゃうるさいわ。そんなんいうたら、俺も言うたるで」
「なにを?」
「分別ある団塊の世代、いうところを、ブンベツあるダンコンの世代、いうたやろ?」
「・・・」
「ナニ急に眠っとんねん。あのな、分別ゴミと団塊の世代を一緒にしたら、あかんで。そうやさかい、団塊の世代が家庭で生ゴミ扱いされんねん」
「うまい!」

ちゃんちゃん。



前半は、
老舗の頑固な板前が作った一品料理。
後半は、
冷蔵庫の生ゴミ寸前の残り物で小生が作ったハム炒飯。

以上、ふた品、いかがでしたでしょうか。

posted by 井上誠吾 at 09:16| 日記

2007年02月05日

武道精神と学校教育



固いな、タイトル・・・。
なんと固いタイトルの予告をしてしまったものか、
これじゃ、ナガイ、クドイ、シツコイ、その上にカタイ、と言われても仕方ないですね。
そこで、なるべく“柔らかく”いきたいと思います。

今、学校の先生が、
『子供に対して文句が言えない状況』にあることから、
『子供を立たせるくらいの罰は容認する』との体罰論議が出ているようです。

確かに、法律で体罰禁止が明示されているから、
いざとなる時に、
教師たちの腰が引けてしまうのは理解できます。
しかし、
文科省から通達された、
『ここまでの罰なら許します』
とのハンドブックがないと、子供を教育できないというのでは実に情けないことです。
そんなに教える自信がないのなら、子供に対して失礼だから、教師なんか辞めたほうがいい、と言いたい。

体罰をしなくても、
“深い愛情に裏付けされた効果的な叱り方”
をすればいいのです。
その術を知らない教師が多いから、
感情的になり、行き過ぎた体罰をおこない、傷害を与えてしまうような事件になってしまうのです。

その術を知っている人たちがいます。
武道家であります。

小生、真剣に、
学校教育に「武道を採りいれるべき」だと思っています。

土曜日を開校し、一ヶ月に一回でいいのです。
民間から、空手でも柔道でも剣道でもいいから、地域の武道家に講師として来てもらい、
「こうやったら、痛いんだよ」
「こうしたら、ケガするんだよ」
「これをやられたら、怖いだろう?」
などなどと、実際に体を通して、授業を行うのです。

そして、武道家の講師に、
「いじめている奴はいないか?」
「いじめられている子はいないか?」
「いじめは卑怯なことなんだぞ」
と授業の中で、問いかけていけば、
間違いなく、いじめは激減していきます。

一ヶ月に一回と申しましたが、
あとの土曜日は、料理家だったり、作家だったり、建築家だったり、思想家だったり、別な職業をもった民間の講師に来てもらうのです。

それぞれの世界で、
プロとして活躍している人々の授業は、
きっと子供たちにとっても刺激的なはずです。
体育、知育、徳育、食育、などが実体験を通して、学ぶことができるのですから、楽しい上に情操教育としても、かなりの効果をあげるのではないでしょうか。

公立校が荒れた今こそ、
私立校よりも、
『面白く、楽しく、役に立つ、公立校!』
に生まれ変われるチャンスなのです。

教育再生会議で出された『民間人登用』は、
現校長と新校長の首のすげ替えで終わるのではなく、
このような大胆な『プロの登用』を行って欲しいものです。

やはり、カタクなりましたか・・・。
小生も、
『面白く、楽しく、役に立つ、ブログ!』
を目指し、精進いたします。


posted by 井上誠吾 at 08:41| 日記

2007年02月04日

節分


節分の写真をイベント情報にアップしました。
管理人に無事に写真を届けられるようになり、
“パソコン幼稚園”は卒業!
これでもう、
ぴかぴかの“パソコン小学1年生”です。

おちゅ
posted by 井上誠吾 at 18:29| 日記