2007年03月30日

強いと偉いは、違う

サブタイトル・コウキ君との会話
※(コウキ君バージョンが好みでない方はご遠慮下さい)


忘れていました、コウキ君の試合!
先週の土曜あたりに試合をやっていた筈です。
確か、「KO予告」をしていたような記憶があります。
どんな試合をしたのやら。
マズイなぁ。突然、このブログにコウキ君が現れそうです。
「悪いね。君の試合、見るのを忘れてた」
なんて言ったら、失礼だし、傷つくだろうなぁ。


「オッさん」
現れました、サル顔のコウキ君。
「誰?」
小生、ここはボケるしかありません。
「誰はないよ、オッさん、俺やん」
「知りまへんな、こんなサル顔の二枚目見たことありまへん」
「世間では、カリスマボクサーいうとるよ」
「借り住まいの僕さ?」
「そ、借り住まいやから、僕さ、ファイトマネー稼いで・・・てね、オッさん、ちゃうて。カリスマボクサーや」
「カリスマボクサーといえば、シライヨシオ」
「時代どこまでさかのぼんねん。白井義男は江戸時代のチャンプやないの」
「ほんまでっか、白井はんは江戸時代の・・・てね、江戸時代にボクサーはおりまへんで、コウキ君」
「コウキ君いうたで。知っとるやん、俺のこと」
「グォォォー」
「なにイビキかいとんねん」
「ハァァァー、ハッ」
「なにイブキしとんねん」
「1・2・3・・・」
「ダァーッ、って、なにイノキしとんねん」
「オ、オェェェー!」
「今度はなんや?」
「夕べ、飲みすぎて、イエキ吐いてます」
「・・・俺、帰りとうなった」
「ほな、サヨウナラ」
「マジ、帰すんかい。ちょっと上がらせて貰うで」
「ブログに上がる部屋はありまへん。よく『誠拳の部屋』とか『しょこたんの部屋』とかありますげと、アレ部屋ちゃいます。あの人ら、どこかの不動産に騙されてます」
「オッさん、なんか変やな。もしかして、俺の試合見てへんのやないか?」
「(図星!)そ、そげんこつ、あらしまへん。ばってん、あんさんは、よう頑張ったんとちゃう、だべか」
「いつも思うけどな、オッさん、どこの生まれや」
「九州どすばってん、見えまへんか?」
「ナマリ、無茶苦茶や」
「どうも、ありがとさん」
「なんのお礼や。ところで、試合どうやった?」
「よう頑張ったんとちゃう、だべか」
「ま、あんなもんだべ、てね、移ってまうがな」
「あんなもんて、どんなもん?」
「オッさんが見ての通りや」
「見ての通り? その見ての通りが難しい」
「難しいことないて。オッさんが、どない見たかや」
「座って見た」
「ちゃうやろ」
「立って見たほうが、よかった?」
「立って見ようが座って見ようが、関係ないねん、オッさんが、どない見たかを聞きたいねん」
「目を見開いたまま、見た」
「目は時々閉じなあかんねん。アレ開けっ放しやと目が乾いて大変や。あのな、どういうふうに試合を見たかや」
「穴があくほど君を見た」
「そう、おかげで俺の鼻の穴がこんなにあいて。オッさん、ちゃうやろ。俺の鼻の穴は最初からサルそっくりにあいとんねん」
「新手のツッ込み自虐ネタか。腕をあげよったな、コウキ君。さすがは将来、バラエティーを目指してるだけあるな」
「そんなん目指してないよ」
「フフフッ」
「なんや、その笑い」
「ヒヒヒッ」
「気色わるいで、笑い方」
「ナナナッ」
「ナ行かい。みんな普通は、ハ行で笑うで」
「ただ今、不条理な笑い方を実験中です」
「こんな時にナニ実験しとんねん。ま、ええよ。判っとるよ、オッさんが試合を見逃したことくらい。気にせんでええよ。今回の試合は、反省点もいっぱいあるしな」
小生、神妙なコウキ君を見て、思わず、
「(小声で)負けたんだ、コウキ君」
「今、なんか言うた?」
小生、ここは励ましてやろうと、
「コウキ君ッ。反省してる時の君は素敵だ!」
「ほんまに?」
「ツッぱってるコウキ君はサル芝居のサルだ」
「ホメてんのか、ケナしてんのか、判らん人やな」
「いいか、コウキ君。君に欠けていたのは、謙虚さだ」
「ほんまは謙虚なんよ。ツッぱって見えんのは親父の演出よ」
「やっぱり、親父の演出だったかッ。いや、君は素晴らしい! いいか、早く親父を説得して、20才の素直な本来の君に戻るんだ。君は判っている筈だ。強いと偉い、はちがうって」
「強いと偉い、はちがうの?」
「そうだ。強いと偉い、を勘違いしちゃいけない。どんなに強くても尊敬はされない」
「されると思うとったよ」
「俺は強いんだ、と人前で言うヤツは、それしか自慢できるものがないってことなんだ」
「よう考えたら、俺、それしか自慢できへんな」
「本当に強い人は、自分のことを強いなんて恥ずかしくて言ったりしない。能ある鷹は爪隠す、て言うじゃないか」
「脳なかったんか、俺」
「その脳じゃなくて、才能の能。サル顔の君には才能がある」
「サル顔、関係ないやん」
「そのサル顔がいいんだ。愛嬌のあるサル顔だ。サルを見て気持ち悪くなる人はいない。サル顔はサル顔らしく、人から愛されるように心がけると、サルも木から落ちて喜ぶ」
「よう判らんな」
「こっちもよう判らん。勢いで言うてしもうた。ま、とにかく、サル顔はウシ顔より得やということや」
「ウシはどこから来たん?」
「小岩井牧場や」
「ますます判らんな」
「そう、君は何も判ってない。自分がほんの少しの心掛けで変われるということを」
「変われる?」
「君はもっと魅力的な人間になる。20才の素直な君に戻って、ほんの少しの敬語と、ほんの少しの謙虚さを出すんだ」
「ほんの少しでええの?」
「ほんの少しで充分。今までヒドかったから効果絶大だ」
「少しなら出きるよ」
「さらに! 対戦相手への慈しみと、後輩や弱者への気配りも忘れてはならない」
「イツクシミと、キクバリ? なんや難しそうやな。そんなん、俺にできるかな」
「できる! いいか、君のとって大切なことは、相手に勝つことより自分に勝つことなんだ」
「自分に勝つ?」
小生、おもむろにコウキ君に背を向けて、
「勝負の世界で生きる人間にとって、究極のテーマさ」
と、静かに背中で語る小生、渋すぎです!
「!・・・そ、そうやったんか。オッさん、おおきに!」
「いいってことよ」
小生、ゆっくりとコウキ君を振り返り、
「コウキ君、よく聞くんだ」
「ハイ!」
コウキ君、ピカピカの一年生のように返事をします。
「相手に勝つより自分に勝つ!・・・君が、その大切さに気がついて、ほんの少しの努力をすれば・・・君は、いっきにカリスマ性のある大スターになっていく!」
「頑張ります!」
「その調子だ。先週、負けたことなんか気にするな。誰だって負ける時がある。肝心なのは負けた時にどう対処するかだ。負けは負けとして認め、負けたことを踏み台にしろ、負けたことをバネにしろッ。負けを気にしていたら、気持ちまで負けてしまう。負けは負け、負けたことは忘れて、自分に負けずに頑張るんだ!」
小生、懸命にコウキ君を励まします。
「オッさん・・・俺、先週の試合、勝ったよ」
「え?」
「俺、勝ったよ」
「勝った?」
「うん・・・オッさん、俺が負けた、と思うとったやろ?」
小生、面目丸つぶれ。
「そうやろ?」
「ピッピッピッ」
「不条理な笑いはええちゅうの」
「モッモッモォー」
「小岩井牧場の回し者か!」

チャンチャン!




小生とコウキ君との創作会話でした。
なにせ、コウキ君バージョンが大好きな方がおられるものですから、そろそろかと思いまして、出してみました。
失礼を致しました。
posted by 井上誠吾 at 11:15| 日記

2007年03月26日

カッコいい男


人は見かけによらないものです。

昨日、街を歩いていて、
タバコを手にした中年紳士とすれ違いになり、危うく、タバコの火が小生の手に当たりそうになり、思わず手を引いたところ、「あ、失礼」と中年紳士は謝りました。
小生は「いいえ」と去りながら、それにしても、子供の顔にでも触れたら、大変なヤケドを負ってしまうところだったぞ、と思いつつ振り返ると、
なんと、その中年紳士、タバコをポーンと指で弾いて道路の中央へ投げ捨ててしまいました。
小生、よほど注意しようかと思いましたが、急用で先を急いでいたため、不快な思いを残しつつ、その場を去りました。

そして、用事を済ませての帰り道。
小生が赤信号で待っていると、
向こう側で人相の悪い兄ちゃんがタバコを吸いながら、同じように信号待ちをしていました。
アイツもタバコを投げ捨てるな、と様子を見ていると、
なんと、
その人相の悪い兄ちゃんは、ポケットから、携帯用灰皿を取り出すと、それでタバコの火を揉み消して、吸い殻を中へと仕舞ったではありませんか!

小生、先ほど、タバコを投げ捨てた瞬間の中年紳士の姿を思い出しました。
一見、立派そうに見える紳士が、歩きながらタバコを吸い、しかも、それを道路に投げ捨てる。
見かけは立派な紳士でも、中身は無恥な愚者であります。

その点、
この人相の悪い兄ちゃんは、中身は立派な紳士です。

青信号になり、携帯用灰皿をポケットに仕舞いこみながら、歩き出す兄ちゃんの姿はカッコ良かった!

小生、人相の悪い兄ちゃんとすれ違いながら、
先ほどの中年紳士とは違う、爽やかな風が通り抜けていくのを感じました。

人は、生きているだけで、人に迷惑をかけている。
確かに、そうでしょう。
しかし、
人は、生きているだけで、人に爽快さを与えている。
そうとも、言えます。

人相の悪い兄ちゃんに爽快さを貰った小生が、
今度は、他の誰に爽快さを伝え、
その誰かが、また他の誰かに伝える。
そんな善の連鎖に繋がっていくと、素晴らしい世の中になる筈なんだけどなぁ。
去っていく人相の悪い兄ちゃんの背中を見送りながら、そんなふうに思っていました。

カッコ良さとは、
人が見ていないところで行われるからこそ、カッコいい!
誰かに見られているから、
何かをしよう、というのではなく、
人の目なんか気にすることなく、自分の考え、自分の信念、
自分の情熱、で行動するから、“美”へと繋がる。

小生も、
誰に見られても恥ずかしくないよう、
身を引き締めたいと思います!

押忍!
posted by 井上誠吾 at 11:31| 日記

2007年03月23日

素直

横綱と大関の差は何か?
といえば、
素直か、素直でないか、その差で、
横綱になるか、大関で終わるか、の違いが出てくると聞いています。

松下幸之助翁は、
「素直な心になりなさい」と様々な著書に書き残されています。
素直とは、ただおとなしく従順で何でも言うことを聞く、
ということとは少し意味が違います。

私心がなく、曇りがなく、
物事をあるがままに見ようとする心の目をもっているか、どうか、だと思います。

これまでの自分の人生で得た知識なり経験を、
頭の中で、あれこれと考えても、
自分の人生のキャパ以上の解決策など出てこないでしょう。

物事を、頭の中ではなく、
心の目で、しっかりと捉えようとすることが肝心だと思います。

この二・三日、千葉真一総裁との打ち合わせが続いており、
あらためて「肉体は俳優の言葉だ」を再認識しました。

今、NHK大河ドラマ『風林火山』で、
千葉総裁は武田信玄の育ての親・板垣信方役を演じておられます。
小生の周辺は勿論、NHKにも「千葉真一の板垣信方が良い」との大きな評判が届いているようです。
昨日、千葉総裁と話していますと、
「俺は下手だよ。しかしね、演技の上手い下手ではないんだ。頭で覚えたセリフを五体で感じ、信方と言う人物になりきって、気持ちで演じている」
と目を輝かせて語っておられました。
役者道・五十年になろうとする人の謙虚な言葉と受け止めました。

小生、生意気を言わせていただきますと、
千葉総裁はピュアな方です。
それゆえに、仕事となると、一直線に突っ走り、誤解を招くことが多々あるようですが、
それでも構わない!
そろそろ70才に手が届くというのに、心の奥底には、若者顔負けの純粋さを保ち、曇りのない精神で居続けようと心がけておられるのですから、素晴らしいことです!
小生、大変、勉強になりました。

素直な心、五体の芯で感じることが肝心です。
頭ではなく、心の目で見て、感じ、掴み取ることです。
まるで水晶のように一点の曇りもない心の目には、物事をあるがままに見ようとする眼力さえも備わっている筈です。

その素直な心は、
武道によって、鍛えられていく。
と信じております。

小生、一般部の方々によく言う事なのですが、
道場では、憎くもない相手と殴りあったり蹴り合ったりして、稽古でぶつかり合っています。
そこには、平和な日常にはない、凄まじいまでの痛みや恐れや苦しみがあります。
そんな非日常の稽古で得たことは、即、日常の生活の中で活かすようにすべきなのです。
空手は空手、仕事は仕事、と割り切るのではなく、
武道精神を根本とした空手は、活きた哲学として生活の中に反映されていきます。
非日常の稽古が日常に活かされてこそ、武道空手の醍醐味であり、社会的な使命が果たされるのだと認識しております。

それは、少年部においても同じです。
道場で覚えた礼儀、集中、辛抱、やる気、そしてやさしさ、等々を、家庭や学校や隣近所など、毎日の生活の中で出すことであります。

老若男女問わず、
空手を通じて、素直な心を養っていく。
五体の芯、心の目で見れば、
どのような逆境にあっても、バネに転じて、
今、この瞬間の生を楽しめ、大きな生き甲斐が芽吹いてきて、やがて、それは自信となって現れてくるでしょう。

空手で強くなるということは、
そういうことだと、小生は認識し日々汗を流しております。


押忍!

posted by 井上誠吾 at 16:03| 日記

2007年03月21日

無限大の可能性 その2

前回のブログは好評でした。
いろいろな方から、次のようなご意見を頂きました。
「一瞬を無駄にせず自分を磨きたいと思います」
「今やる事の大切さが心の中にすーっと入ってきました」
「井上節が戻ったけど、もう一ひねり欲しかったです」
「生きているこの瞬間を大切にしたいと思います」
「短い中にもダイナミックな展開があり素晴らしいです」
「ブログは、短くなくても、長くてもいいです」

皆さんに、しっかりと読んで貰っているんだなぁ、とあらためて心から感謝致します。(※ 最後の「ブログは長くてもいい」とメールをいただいたSUさん。返信のメールを送っているのですが、届きません。おそらく、小生のやり方がいけないのだと思うのですが、もし、よかったら、誠真会館のほうに電話を下さい)。

皆さん、私と面識のある方々ばかりで、人柄はよく、真面目で、世の中を色眼鏡で見るような人など皆無です。
だからこそ、「今、この瞬間を生きる」ことに共感されたのだと思います。
別に「もう一ひねり欲しい」とのSTさんに合わせるわけではないのですが、以下、追加したいと思います。



一瞬の無限大とは、宇宙の時空世界を意味していると思います。

釈迦は、宇宙は一つの偉大な生命体で、
万物は『成・住・壊・空』を繰り返している、と説いています。
つまり、成り、住んで、壊れて、空になる。
人はもちろんのこと、植物も動物も、地球も夜空に輝く星々も、すべてのものが、誕生し、存在し、崩壊し、空になる、ということです。

大宇宙の中の地球、地球の中の日本、日本の中の各地域、その小さな地域の中で生きているのが、我々です。

そう考えると、
今ある地位とか、栄光とか、絵に書いた餅かも知れない。
部長だって、リストラで解雇されるかも知れない。
社長だって、不況で倒産に追い込まれるかも知れない。
首相だって、失脚して辞任に追い込まれるかも知れない。
その逆に、
今、悲惨な状況にある人がいっきに好転して、地位とか、栄光とかを掴み取るかもしれない。
しかし、
そんな人の世の『毀誉褒貶』なんか、どうだっていい!

我々の、この一瞬とは、
地球が誕生し、人類が誕生し、その自然と人類の長い歴史の恩恵を受けて、“今”があるのです。
我々は、過去の人々の知恵と努力と汗の恩恵を受けて、生を享受しているのだから、当然、未来をしっかりと見るべき義務があるのです。
子供たちのために、孫たちのために!

地球が悲鳴をあげています。
子供たちも悲鳴をあげています。
“今”を生きる人々次第で、未来の明暗が大きく分かれます。

幸いにも我々日本人には、
宗教も、思想も、人種も、すべての垣根を越えた、
世界に誇れる『武道精神』が過去から伝承されています。

この一瞬を、未来に生きる子供たちのために、エネルギッシュに燃焼させていくべきであります。
誠真会館の根本目的は、
“武道精神の伝承”そこに置いています!


しかし、人間、ゆとりが必要です。
ハンドルに遊びがなければ目的地に行き着きません。
真面目な人ほど、この一瞬に頑張ろうとする。
だからこそ、
時には、悠久の宇宙の流れに身をゆだね、
のんびりと、ゆったりと、身の丈にあった、自分なりの未来を見つめる”時間”があってもよいのではないでしょうか。

その“ゆとり”の一瞬は、
豊かな人間性の“ゆとり”となり、
やがて、無限大の価値へと醸し出され、
未来の人々へと広がっていく。
それは、まさに、過去の人々の恩恵で、
今の我々が生かされているように・・・。
そう、信じております。


「もう一ひねり」あったかどうか判りませんが、
皆さんに共鳴していただければ、充分に嬉しく思います。


押忍!


posted by 井上誠吾 at 11:35| 日記

2007年03月18日

無限大の可能性

「永遠とは、一瞬の無限大である」
小生が親しくさせて頂いている作家の言葉です。

長く遠い人生も一瞬の積み重ねであります。
良くなるか悪くなるか、勝つか負けるか、生きるか死ぬか、
すべて、この一瞬の判断で左右されます。

人は窮地に立たされると、
ついつい、弱音を吐いたり、言い訳をしたり、するものです。
しかし、そんな時こそ、
今のこの一瞬を、
ポジティブに思考転換したいものです。

要領よく、楽して、生きようなんて、思いたくもない。
どんな試練や、難題が、立ちはだかっても、
絶対に逃げてはいけない。
そうでないと、
やがて、人生の終焉を迎えた時、
充分に生きたじゃないか、と誇れることもなく、
悔いを残したまま、死んでいくことになるでしょう。

自分には、
出来ないとか、難しいとか、
自ら決めてかかり、可能性を潰してはいけない。

出来ないからこそ、奮い立つ!
難しいからこそ、挑みかかる!

今の時代、
要領よく、楽して、生きることが、
カッコ良く、スマートだと、勘違いしている風潮があります。

カッコ良く生きる、とは、
必死に、もがき苦しみ、
どのような辛酸な目に遭っても、
それを丸ごと受け止め、表情には一切出さず、
人には、明るく、優しく、接することができること。
それはまるで、
優雅に泳ぐ白鳥が水面下では懸命に足を動かしている姿にも似ていて・・・。

そんな生き方こそ、カッコ良い!
小生は、そう思っております。

この一瞬を、
精一杯に生きて、
無限大の可能性へと繋げていきたい!
時だけは、
何人にも平等に与えられているのだから。

仁・義・礼・忠・孝・勇・信。
その扉を開けば、
自分に内在する力が、
眩しいばかりの希望や可能性へと転じ、
無限大に広がっていく、と確信しております。

押忍!

posted by 井上誠吾 at 11:23| 日記

2007年03月15日

帯に短し襷に長し

参りました。
ブログを書くということは、実に難しいことです。
いつも、何人かの御仁から、ナガイ、クドイ、シツコイ、と有り難い注文を承っているのですが、
その中の一人の御仁から、
前回の『自分を信じる』は、
「帯に短し襷に長しで、使い物になりませんね」
と、バッサリと斬り捨てられました。
昨夜、小生が眠りについたところを電話で起こされて、
バッサリと・・・!

ほんと参りました。
重傷、です。
肉を斬られて骨まで斬られてしまった、ほど致命傷です。
もう・・・書けない・・・!
皆さんとは・・・暫く、会えないかも知しれない。
復活は・・・いつになるかは、わかりませんが・・・いつの日か、必ず・・・ほんとに、復活します。










ほんとに参上しました!

え?・・・随分と早いな、ですって?
お約束の三段オチです。
参りました──ほんと参りました──ほんとに参上しました!

てね・・・。
面白くない?

すみません、ちょっと遊んでしまいました。
実は、前述の御仁が、
「ナガイと最後まで読まないんですよ」
と会うたびに仰るのです。
そこで、
前回の『自分を信じる』は、
自分を信じて、思い切り、短くしてみたのですが、
思い切り、自分が信じられなくなりました。
すみません。
また、お約束を・・・。

では、昨夜の御仁の注文にお応えして、
以下、前回の『自分を信じる』を、もう少し膨らませてみたいと思います。





等身大のあるがままの自分、と書きましたが、
そこが肝心なところであります。

背伸びしたって、
カッコつけたって、
自分は自分です。
やがて、メッキは剥がれるものです。
だったら、見栄を張ったり、虚勢を張ったり、する必要ない。自分らしくあればいい。
梅は梅、桜は桜、です。
梅は桜にはなれない。しかし、梅の花には、寒い中でひっそりと咲く謙虚な美しさがある。

人も同じです。
どんな人だって、自分らしい花を咲かせればよい。
桜の花が流行っているからって、
桜の花を咲かせようなんて思わないで、
梅でもいい、菜の花でもいい、スミレの花でもいい、道端に咲く名もない花でもいい、自分らしい花を咲かせることができれば良いのではないでしようか。

花を咲かせることなく、枯れるよりも、
花を咲かせることなく、潰されるよりも、
自分らしい花を咲かせるためにこそ、人生はある。
そう、思います。

一流の料理人は、最高の食材で料理する。
しかし、超一流の料理人は、今ある物で最高の料理をする。
といいます。
何も、自分が最高の食材だ、と威張る必要はない。
どんな食材であれ、天という超一流の料理人の下ならば、
等しく、最高の料理と成りうるのだから。

また、
自分を料理人に置き換えたなら、
何も最高のものを集める必要はない。
今あるものの個々の資質を見抜き、それら全部を輝かせられるような器になるべく、精進すれば良いのだから。

つまり、
『自分を信じる』ということは、
自分と他人は違う。
自分には自分なりの魅力や輝きがある。
それを信じて、思う存分に、人生を楽しむべきだ!
と、思っているのですが・・・。





もう、この辺でやめとかないと、
「帯に長し、綱引きの縄に短し」と御仁に指摘されそうです。

ナンジャ、その例えは? って・・・御仁の声が・・・。
あれ? 聞こえてきません。
ちょっと・・ちょっと、ちょっと。

Kさん、
また最後まで読まないで、どっか行っちゃいましたね。
昨夜、電話で叩き起こされて、こうして反省して書いているんだから、最後まで読んで欲しかったなぁ・・・。

ちなみに、
Kさんは、大手出版社の編集の仕事に携わっている方です。
小生のブログでは、
サル顔のコウキ君、との会話が大好きらしくて、
あれを読んだ時、おもちゃのサルのように、シンバルならぬ手を叩いて喜んだそうです。
ふと、周りを見回すと、そこは職場だったらしく、同僚の冷たい視線を感じ、笑いをこらえトイレへ行き、爆笑しているところを上司に見られ、病院を紹介されたそうです。

編集者なのに、ナガイ文章が苦手なんです、Kさん。
気の毒に・・・。
仕事、大丈夫なのか、それが心配です。

それこそ、
『自分を信じて』ほしいものです。

Kさんと違って、
最後まで、お読みいただいた皆さん、
ありがとうございました!

押忍!

おっと、Kさんの声が届きました。
なんでも、プリントアウトして、屋上で読んでいたそうです。
ともあれ、最後まで読んでいただいたようです。
ありがとうございました!

posted by 井上誠吾 at 11:02| 日記

2007年03月14日

自分を信じる


人は誤解する動物です。
たから、面白いのかも知れない。
あんなにいい人だったのに、こうだった、とか。
あんなに素敵だったのに、こうなってしまったとか。

それは、もしかしたら、
見る側の人間の主観であり、
本当の姿などは、何も見てはいないのかも知れません。

等身大のあるがままの自分を、正しく見て欲しい、

いや、
違うような気がする。

等身大のあるがままの自分を、信じて生きていく。

この方がしっくりきます。
うん、これでいいんですね。
自分が自分を信じてやらないで、誰が信じてくれるんだ!

だからこそ、
自分に嘘をつかないよう、
自分に負けないよう、
生きていかなければいけないんだ。

武道は、
小生に、そんなことも教えてくれます。

                  了




短いほうがよい、
という方がおられまして、
ご希望通り、短くしてみました。


posted by 井上誠吾 at 09:18| 日記

2007年03月10日

五体で表現



肉体は俳優の言葉だ、
千葉総裁の座右の名であります。
小生の記憶に間違いがなければ、
亡くなった深作欣二監督が千葉さんに送った言葉です。

ちなみに、1961年制作・映画『風来坊探偵』は、
千葉真一・主役デビュー作、
深作欣二・監督デビュー作、
神波史男・脚本デビュー作、
この脚本家は当道場名誉顧問の神波先生であります。
お三方とも、小生の人生に多大なる影響を与えた尊敬してやまない方々であります。

肉体は俳優の言葉、
つまり、俳優は五体を使って自己を表現する。
五体とは、頭、首、胸、手、足、の五体。
要するに、頭だけで考え、上っ面な表現をするのではなく、五体の芯で捉え、感じて、内面から吐き出すように体全体で表現するということです。

小生、それこそ、頭では、理解していたものの、
結局、体では理解できず、俳優として、自己表現の完成を果たすことが出来ませんでした。

俳優、というのは奥深いものであります。
賢くなければならない。
その賢さも、
偏差値が高いとか、IQが高いとかの賢さではなく、
人としての賢さ、です。

この“人としての賢さ”が魅力となり、個性となり、表現へと昇華していると小生は思っております。

最近、一流大学を出て、大臣にまでなった方が、
「女は生む機会」と発言して、物議を醸し出していますが、
学校で得た頭の良さなど、人として何の役にも立たない、という証明のようなものです。
せっかく、一流大学を出たのなら、その知識を社会に出て体験の中で活かし、その体験の中から生きる知恵とし、人間力へと昇華してほしいものです。

俳優が五体を使って表現することと、
空手の稽古というのは、通じるものがあります。
『生身の体験を通して得る空手の道は、極めれば全ての道に通じると信じております』
千葉総裁が、
このホームページの指導部の欄で書かれていますが、
まさに同感であります。

基本、移動、型、組手、様々な稽古において、
頭で考えるのではなく、
五体の芯で捉えて、感じて、基本、移動、型、組手、という稽古で弾けるように表現する。
これが、パワーとなって現れてくる。

人生、無駄なものは何もない、とはよく言ったものです。
若い頃から聞いていた、
『肉体は俳優の言葉』が、
54才の今になって、理解が出来るようになり、
そして、それが、空手にも通じ、すべての道にも通じる、と得心がいくようになってくるのですから。

空手は、
力をつけ、強くなることだけを目的とすれば、
修羅に行き着きます。
強くなればなるほど、
弱者に目が行き届き、
人としての力と慈愛を身につけることが肝要です。

かくいう小生か、
それを実践できているかというと、怪しいものです。

はい?・・・もしかしたら、頭で考えているのは、おまえだろうですって? と、例の御仁の声が届きました。

そうです。
だから、
生涯学習、です。
生涯修行、なのです。
今日も、道場で皆さんといい汗を流したいと思います。

押忍!
posted by 井上誠吾 at 08:17| 日記

2007年03月05日

やる気


道場の入り口に、
『やる気は誰かがくれるものではない。自分が生み出すもの』と筆文字で書いた拙作を貼っております。

小生自身に言い聞かせているところが多分にあり、
また道場生の皆さんと共に汗を流しながら、互いに“気”を充実させようとの思いを込めて書いたものです。

けっして、押し付けでも説教でもありません。
このようなブログを書いていると、
時々、「勉強になりました」とか「考えさせられました」とかメールや電話や言葉をかけられるのですが、そのつど、大変うれしく、大変ありがたく思っております。
特に、あえて言わせていただきますと、
「感動しました」
とのメールや言葉をいただいたりすると、
「よし、頑張ろう」
と単細胞の小生は、俄然、やる気が出でくるのあります。

それは、おそらく、
小生自身が、夢半ば、目標半ば、であり、
勉強中だったり、思案中だったり、しておるわけでして、
勉強になったとか、考えさせられた、とかの言葉は、ありがたすぎて、むしろ恐縮してしまうのでしょう。
その反面、
人によろこんで貰いたい、という気持ちは職業柄か強烈に持ち合わせており、感動されると、こっちの精神までもが高揚してしまうのだと思います。

ともあれ、すべては、
やる気の“気”だと思っております。
その一瞬の“気”のゆるみが、
勝敗を分け、運命を分け、生死を分けたりするものです。

気合を込めれば、心が響きます。
心が響けば、魂が燃えます。
魂が燃えれば、生きる勇気が沸いてきます。

勇気にも、いろいろあります。
挑む勇気、
頑張る勇気、
逃げない勇気、
辛抱する勇気、
行動する勇気、
などなど、人や場所や状況により、
勇気の質も変わっては来るでしょうが、
たとえ、どんな小さな勇気でも、感動はあります。

小生は、少年部から、よく感動を貰っています。
思うように蹴り技が出来なくて、泣いた子。
スパーリングでケガをして、泣いた子。
稽古が辛くて、泣いた子。
そんな子たちが、
自ら、変わろう、変えていこう、とする瞬間があります!
そこに、感動が生まれるのです。

大人にしたら、何でもないことでも、
子供にしてみれば、大きな壁であることが多々あります。
しかし、大人が、その壁を取り払ったり、階段を付けてやったりしては何の意味もありません。
大人は、見守り、言葉をかけてやるしかない。
子供には、
壁を乗り越える“勇気”があること、
そのためには“やる気”を出させてやること、
さらに、壁を乗り越え、自信を掴み取らせてやること、
が大切だと思っております。

小生が教育問題を取り上げる理由はそこなのです。
子供に“やる気”を出させ、活き活きさせてやることが大切なのです。

学校の、
答案用紙の問題には、決まった答えしかありません。
しかし、
果たして、
それが良いかどうかは、
小生は疑問に思っております。

小生が高校の時、
社会の期末テストで、まったく勉強していなかったところが出題され、虫食い状態で提出するより、むしろ白紙で提出したほうが良いと思い、白紙で提出しました。
ただし、
自分の名前の横に『裏をお読み下さい』と書いておきました。
その結果、点数は80点でした。
実は、
答案用紙の裏に、出題された項目をテーマにして、社会とは関係ない作文をびっしりと書いていたからです。
その先生は、国語も担当されていたからかもしれませんが、『次回からは、社会の勉強もするように』と点数の横に書いてありました。

うれしかったです。
その先生の懐の大きい心配りに感動しました。
おそらく、苦笑しつつ、「頼むよ、国語のテストじゃないんだから」と、つぶやきながら点数をつけられたのではないか、と推測しております。

しかし、
学校とは、本来、そういう場所であってほしいものです。

例え、答えが決まっていても、
答えどおりに、生きていける人など誰もいない。
ありとあらゆる障害や壁が必ずくるのだから、
それに立ち向かうには、
決まった答えなど、ある筈もなく、
要は、
やる気を出して、
勇気を抱いて、
突き進んでいくしかない!

それを教えるのが、学校だと思うのですが・・・。

残念ながら、学校には、
テストに象徴されるように、明確な答えがある。
その明確とされている答えだって、
歴史が見直されたり、
物理学で新発見があったりすれば、
明確とはいえなくなる。
ならば、
謙虚に真摯に、
共に学んでいく姿勢が大事なのではないか!
と思うのであります。

冒頭に書きましたが、
小生、このブログで、押し付けや説教があっては絶対にいけないと、常に自戒しております。
学校のテストと違って、
武道には明確な答えなどありません。
小生自身が、
勉強の身、修行の身、なのであります。

ゆえに、
我々誠真会館の武道には、上意下達がないのです。
『忠』とは、まごころ、です。
指導部層への“忠誠”ではなく、
すべての人へ“まごころ”を尽くす意味であります。

小生自身、
上から物を言う偉そうな輩が大嫌いであります。

吉田松陰の足元にも及びませんが、
「世の中、こうあるべきだ」
との理想は頑固に持っております。
松陰自身、
松下村塾の塾長でありながらも、
誰が塾長で、誰が塾生か判らないほどに、
塾生たちと激論を交わしていたらしいのですが、
素晴らしい!
誠真会館も、そうありたいものです。

このブログで、小生の理想は常に語りかけているつもりです。
「勉強になりました」「考えさせられました」、
さらに「感動しました」等々のお言葉は、
心底からうれしく、これからも沢山いただけたら、
益々、やる気が沸き起こっていきます。
しかし、
時には、
「こういう考えもありますよ」
との、叱咤激励のお言葉もいただければ、
小生自身が、勉強になります。

どうか、
これからも、沢山のお言葉をいただければ、
大変うれしく思います!

小生自身、やる気を込めて、
押忍!
posted by 井上誠吾 at 11:42| 日記

2007年03月02日

千葉総裁・月刊誌『正論』で語る

昨日、発売された月刊誌『正論』で、
千葉真一総裁が、上智大学名誉教授の渡部昇一さんたちと鼎談されています。

内容は、東京裁判を中心に戦前戦後を考察した歴史史観です。
ひとことで言うと、
あの戦争は侵略戦争ではなく、
自衛戦争だったということなのですが、
このブログでは、
とてもではないが、
一つを語れば、それに派生して、
歴史的な深い考察にまで神経を使わなければならないほど、テーマは重く、深く、幅広いものであるゆえ、
小生が、共感し、疑問に思った部分のみを語りたいと思います。

『敗戦の原因を、東京裁判などを通じて「日本は悪い国」だから、戦前の日本は愛さなくてもよい国とされ、伝統的価値観や家族の絆は「悪しき家制度」として否定され、武士道も軍国主義に繋がるものとして排除された』
とあります。
全く、同感であります。

『(戦争においては)たしかに立派でない日本人はいたでしょう。恥ずかしい振る舞いもあったでしょうが、それが日本人のすべてではない。子供たちに立派な日本人のことを教えなくてどうするのか。今の子供たちは、自らを愛し、誇りに思う感覚が欠落している。酷い祖父や酷い父の子孫である自分に価値などあるはずがない、と無意識に自己嫌悪に陥ってしまい。そうなると他人も価値のない存在と同列に思うようになってしまう』
と、これは千葉総裁が語っています。
全く、同感であります。

ほかにも、いくつも共感するものがあるのですが、
それらは上記の二つに集約されますので、省かせて頂き、
疑問に思った部分に移らせていただきます。

『断じて日本は侵略戦争はしておらず、常に受身で自衛戦争をしたのである』
との渡部さんの発言があります。

小生、申し訳ないけど、疑問に思います。
侵略の意図がなければ、朝鮮、中国、台湾などを日本の領土にしなければよかったのでは?
自衛戦争であれば、日本の国土内だけで降りかかる火の粉を払うような戦争に徹すればよかったのでは?

二点、強くそう思うのですが。

ゆえに、千葉総裁の、
『立派でない日本人や恥ずかしい振る舞いもあったが、それが日本人のすべてではない』
に、小生は共感するのです。

途中、渡部さんは、素晴らしいことを語られています。
イギリスの哲学者の言葉を引用し、
『歴史の事実は雨上がりの大気中にある水滴のごとく無数にある。その断片を拾い集めればどれもが事実だが、ある視点からそれらを見ると虹が見える。その虹がその国の歴史というものである。とその哲学者は語っている。つまり、無数にある歴史の事実から、輝く虹を見せることが一国の歴史教育の要諦なのです』
と語られています。
実に、素晴らしい!

小生、先日のブログにも書きましたが、
武士道精神の『忠』を国家権力が歪曲し、利用すると、
若者を戦争に駆り立ててしまう危険性があります。
その『忠』の持つ不条理を『切腹』や『武士道残酷物語』などの映画が見事に描いていますが、
それこそ、それは、無数にある歴史の事実のひとつであり、
実は、武士道精神の中には、伝承すべき“輝く虹となる事実”が数多くあるのです。

武、とは、二つの戈(ほこ)を止める、ということです。
双方の争いを止めさせるためにあるのです。

様々な歴史的事実を肯定し、
宗教、民族、思想の垣根を越えた、
輝く虹となる根本精神が、
武士道を源とする武道には厳然とあります。

皆様、
千葉総裁の鼎談は、
判り易い言葉で、核心を突いています。
ぜひ、月刊誌『正論』を読んで見て下さい。

小生は、上記のように感じましたが、
皆様はどう思われるでしょうか?
よろしければ、感想をメールでいただければ嬉しく思います。


posted by 井上誠吾 at 13:53| 日記

2007年03月01日

3月の忘れ雪


ついに、
あたたかいまま3月を迎えてしまいました。
東京には、まだ雪が降っていません。

小生の記憶では、
この四、五年前まで、必ず、3月になっても、
3月の“忘れ雪”が降っていました。

雪、といっても、
厳冬の雪とは違い、
小さな白い蝶のように、
美しく舞いながら、降りてきて、
地上に落ちると同時に、静かに消えていく、
淡い雪でした。

あの、忘れた頃に降る雪は、
もう降ってはくれないのでしょうか。

地球の環境破壊を憂うと、
おそらく、降ってはくれないのかも・・・。
なんとか地球が元気を取り戻し、
忘れ雪をプレゼントしてほしいものです。

人は、
時には、
忘れたほうがよい事も多々あります。

嫌な思いとか、
哀しい体験とか、
惨めで、恥ずかしい出来事、などなど、
そんな過去なんか、忘れ去って、
今日から、
気分もあらたに頑張るぞ、
と前向きに生きていくことも、時には必要です。

忘れ雪、といえば、
『なごり雪』という名曲があります。
小生の青春時代の、思い出の曲でもあります。
『神田川』『22才の別れ』『妹』『赤ちょうちん』
とフォークソングのヒットを飛ばしたグループ・かぐや姫のアルバムの中にありました。
かぐや姫のメンバー・伊勢正三が作詞・作曲し、その後、イルカがシングルで大ヒットさせた曲であります。

そのフレーズに、
「今 春が来て 君はきれいになった
 去年より ずっときれいになった」
とあります。
実に、淋しく、切なく、哀しく、
そして、やさしさに溢れる詩であります。

けっして、
名曲の詩を冒瀆するつもりではありませんが、
この“きれいに”という表現を、
“強く”とか“上手く”とかに充てかえれば、
道場生への応援歌になります。
また、
“あかるく”とか“元気に”とかに充てかえれば、
人生の応援歌になります。

そうだ。
ふと、今、思い当たりました。
“忘れ雪”と“なごり雪”の違いです。

“忘れ雪”は、
人がただ単に忘れた頃に降る季節はずれの雪、
“なごり雪”は、
人の中にある心象風景と重なる季節はずれの雪。

こう思うと、本当に名曲ですね、『なごり雪』は!

季節はずれの、
3月の“忘れ雪”、
それとも“なごり雪”、
この四、五年、見ることのなかった雪、
地球温暖化を否定するように、
淡く、美しく、やさしく、舞い降りてほしいものです。


posted by 井上誠吾 at 11:56| 日記