2008年01月26日

地域の情・社会の情・国家の情

昔は、「向こう三軒両隣り」で近所同士が親しく交流をしていました。
「味噌貸して」とか「醤油貸して」とか「赤飯炊いたから、どうぞ」とか、物の貸し借りから、おかずの交換まで・・・。小生が子供の頃、ごく普通の光景でした。

そして、近所には恐いオジさんや口うるさいオバさんがいて、我が子だろうが、人様の子だろうが、子供たちが悪さをすれば叱り、良いことをすれば褒め、厳しくもあたたかい眼差しで見守ってくれていました。

今は、隣りは何をする人ぞ。
個人のプライバシーを重視するあまり、地域の中での人間関係が希薄になり、それと共に情さえも薄れてしまった。
地域で薄れた情は、社会へ、国家へと蔓延しています。

いつしか、日本人の間には、拝金主義や市場原理主義がまかり通り、損得勘定で人との関係を計り、自分に不利益となれば切り捨てる。
情などにはまったく価値を置かなくなってしまった。
年金、福祉、介護、地域格差、経済格差、どれをとっても、情の欠片もない政策ばかりが目に付き、弱い立場の人々を益々苦しめています。

情けない──まさに“情け”がない、時代です。

為政者が情を見失い、上からの権威だけで事を成そうとすると、人心は乱れ、国は疲弊していく。
歴史がそれを物語っています。
優れた指導者や政治家たちは、情の機微というものを見事に把握しており、それに則って、物事を推し進め、民を富ますことを心がけていました。

時には、情けが命取りになる事もあったかもしれません。
時には、非情に対処しなければならない事もあったでしょう。
されど、すぐれた指導者たちは、根本において情を捨て去るようなことはしなかった。

「情けは人のためならず」
情こそ、もっとも日本人らしいものだと思います。
まずは、家族の中に情があり、そこから地域の情へと広がり、さらに社会の情へと広がり、さらにまた国家の情へと広がり、やがて、国民一人一人の幸せとなって巡り還ってくる。

日本人の遺伝子に、情は深く刻まれている筈です。
その情がふつふつと溢れ、善の連鎖となって広がっていけば、世界に冠たる、それこそ“美しい国づくり”に繋がっていくのではないでしょうか。

情とは、なさけ、人へのおもいやりです。
誠真会館では「仁とは、人へのおもいやり」と捉えて、道場の精神支柱にしております。
稽古を重ね、級や段が上がり、強くなればなるほど、弱者に対しての“おもいやり”が身につかなければなりません。

空手の修行は「その為にこそある」といっても過言ではありません。
道場で培う情、こそが大切です。
その小さな情が、地域の人々へと伝わり、そして社会の情へ、さらに国家の情へと、善の連鎖をしていって欲しい、と願っております。

押忍!


posted by 井上誠吾 at 10:16| 日記

2008年01月18日

家族の情

前回のブログから、一週間と少し過ぎただけなのに、家族内の殺人事件がすでに何件か起こっています。
もう、この手の殺人に誰も驚かなくなってしまいました。

せめて、
家族の中にだけは、情が残っていてほしいのに、
悲しい現実です。
こんな時代をなんとかしなければなりません。

小生、成人した二人の子の父親です。
以下、父親としての経験からくる思いのたけを述べさせていただきます。

どんな親だって、最初は愛を込めて子育てをしていた筈です。
しかし、それが子供の成長と共に変化してきて、
子供が勉強しないだの、言うことを聞かないだの、隣近所に恥かしいだの、といろいろな問題が出てきます。
しかし、それらは、冷静に考えてみると、子供のためというより、親の見栄や欲望のためという場合が多々あります。
自己の理想や、世間体を気にしすぎて、子供のためではなく、いつのまにか、自分のための子育てをしている状態に陥ってしまっている自分に気がつくのです。

子供への愛が歪んで、
自己の見栄や欲望に支配された損得勘定へ走っては、
もはや、愛とはいえません。
その辺の親の感情を、子供は敏感に感じ取っている筈です。

しかし、たとえ万が一、愛がなくなったとしても、
人間として、最低限の情さえ残っていれば、なにも巷を騒がすような殺人事件にまでは至りはしないでしょう。

家族の中で、情を保ち続けるには、
信念に基づいた躾、が大事であります。

子供は、家族の一員として生まれた時から、無意識的に一番身近な両親の影響を受けています。
荒々しい家族の中で育てば、性格の激しい子供に育っていくでしょうし、
おとなしい家族の中で育てば、性格の穏やかな子供に育っていくでしょう。
稀に親を反面教師にして、親とは真反対の方向へ育つこともあるかもしれませんが、概ね子供は親に似てくるものです。

親の躾、は子供にとって大切な栄養分です。
時には、良薬の苦さのような厳しさだったり、
時には、深い包容力で包み込まれた信頼感だったり、
それらあらゆる形で表れた情が、子供を勇気づけ、やさしく逞しく育っていく原動力になっていく、ものだと思います。

見返りのない愛、にこそ、情が宿る。
さらに、愛あっての情であり、情あっての愛。
だと、小生は確信しています

ここまで書いても、情について、まだ書き足りません。
クドク、ナガク、シツコクならないうちに、
次回、
「地域の情・社会の情・国家の情」のタイトルへと繋いでいきたいと思います。

posted by 井上誠吾 at 12:51| 日記

2008年01月10日

家族

「家族」とタイトルを書いて、
ふと、以前にも、このタイトルで書いた覚えがあるぞ、
と過去のブログを振り返ってみると、ありました。
なんと、丁度、一年前・1月9日に「家族」のタイトルで書いておりました。
その冒頭部分だけを拾ってみますと、

『兄が妹をバラバラに切断して殺害しました。
──(中略)──
このような事件が、毎日のように報道されています』

と、書いていたのです。
そうです。あれから一年が経ったのです。
予備校生の兄が妹をバラバラに殺害した、あの事件から・・・。
奇しくも、一年後、同じタイトルで書こうとしていることに奇妙な驚きと符合性を感じます・・・、
しかし、
よく考えれば、符合性などではなく、
それほど家族間の殺人事件が頻繁に起こるような世の中になってしまった、ということなのでしょう。

今回、なぜ、「家族」のタイトルで書こうとしたのか?
それは、
『アパートの焼け跡から、刃物傷のある3人の母子が遺体で見つかり、18才の長男が逮捕された』
との事件が起こったことにあります。

背景には家族の「愛」に相反する「憎」があったのでしょうか。
この「愛」や「憎」については、去年の1月9日のブログに書いておりますので、ご面倒でも覗いていただければご理解が得られ、重複することなく、手間が省け、有り難く存じます。

そこで、今日は、家族の「情」について書きたいと思います。

「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい」
と夏目漱石は情について書いていますが、まさにその通り!
明治の文豪・漱石の時代から、人の世の情というのは、そのようなもの、と納得せざる得ないものがあります。
しかし、小生、それで良しとは思いません。

昔から、家族間の殺人事件はありますが、
近年のように、動機が理解できない“理由なき殺人”が連続して起こっていたでしょうか。
若い頃に、松本清張の『鬼畜』や、
中上健次の『青春の殺人者』(蛇淫・実在の事件を題材)、を読んで、ぞっとした覚えがありますが、
「事実は小説より奇なり」で、
今や、松本清張や中上健次の想像を超えた、理解不能なおぞましい事件が続発する時代に突入しております。
これは、現代社会が抱えた大問題であります。

社会全体で、「情」が疎かにされるようになった。
小生、そのことが大きな要因だと思っています。
と、ここまで書いて・・・、
うーん、久々に、ナガク、クドクなりそうな気がしてきました。
申し訳ありません。
「情」については、まだ書きたいことが多々ありますので、次回へと繋げさせて下さい。

一年前も同じようなことを書いていますが、
次回のタイトルは、「家族の情」ということで約束させていただきます。
押忍!

posted by 井上誠吾 at 11:33| 日記

2008年01月01日

この一歩

新年あけましておめでとうございます。

「一年の計は元旦にあり」
365日、最初の一歩の日。
その日に思う・・・。



今年こそは、
「こうするぞ」
との気概で歩き始める。
その強い思いとはうらはらに、
障害が立ちはだかり、
思うようにいかないことばかり・・・。
それでも、
「何をやってるんだ」
と、自分を叱咤して、
「まだ、やれる」
と、自分を激励して、
一歩、一歩、
歯を食いしばり、
前へ、前へと、踏み出していく。

毎年、毎年、そんな繰り返し・・・、
そして、56年目の元旦。

この世に、誕生して、2万日が過ぎた。
たかが、2万日。
されど、2万日。
2万日も生きてきたのに、
まだ成長し切れず、ギラギラしている。

さんざん親不孝を繰り返し、
さんざん人とぶつかりあい、
人を傷つけ、生き恥をさらしてきた。
それでも、親となり、子供たちを育て、
やっと、心底から、
生んでくれた両親に、
そして、周囲の人々に、
感謝する気持ちが持てるようになった。

この気持ちだけは忘れず、
胸の奥底の岩盤に刻み付けたい。

新しい時を迎え、今、思う。
たかが、あと何百日か、何千日かの人生。
されど、あと何百日か、何千日かの人生。
過去に捉われず、
自分に潔く、
老いても、尚、
さらなる可能性に向け、
新しい一歩を踏み出す気骨を持とう、と。

その一歩、一歩は、
悠久の時の流れが、
一年、一年、確かな歩を進めてきたように、
美しく、強く、
そして、
人に、やさしい、ものでありたい。


押忍!

posted by 井上誠吾 at 11:08| 日記