23日(土)、西荻窪駅前で演武を行いました。
毎年、5月下旬に行われる「ハロー西荻祭り」への参加であります。
誠真会館としては、今年で三回目の演武参加となりました。
幼年や小学低学年の何人かの子供たちは、今回が初めての参加です。
稽古の段階から、
気合が小さかったり、
突きの廻り方を間違えたり、
型や移動までも間違える子供が続出。
その子供たちには申し訳ないが、今回は参加させないほうがよいのでは、と迷ったりもしましたが・・・、
最後まであきらめさせず、厳しく稽古を繰り返した結果、
なんとか、見せられるほどになりました。
そして、本番。
何人かが、小さな間違いをしていましたが、
そんなものは構いません。
元気いっぱいに取り組み、何よりも、集中しようとの気合が感じられ、会場からは大きな拍手が送られました。
素晴らしい!
今回は、新宿支部の俳優陣による「五人掛け」のアクション演武も取り入れてみました。
小生の友人である関根大学氏も応援にきてくれたので、
急遽、その場で、“悪役の道場主の役”を振り当てると、
アドリブで芝居をしてくれ、「五人掛け」に幅を広げてくれました。
俳優陣の「五人掛け」もミスもなく、無事に終了。
これまた大きな拍手を貰い、ホッとしました。
控え室に戻り、食事会でビールとジュースで乾杯!
子供たちも俳優陣も保護者の方々も、みんなで演武について談笑しながら食事会が進みました。
そんな光景を見ながらのビールの味は、格別であり、美味さもひとしおでありました。
食事会が済んで、祭りの実行委員の方々に挨拶に伺うと、
「子供たち、元気があって良かったですね」
と会う人々から声を掛けられました。
この祭りは、地域の人々との交流を目的としており、祭りを裏で支える委員の方々には大変なご苦労があるのです。
小生など、演武に参加させていただくだけで、なんの協力もできないでいるのですが、
「良かったですよ」
と声を掛けていただくことで、誠真会館として、地域の人々の交流の一助になれたのかも知れない、と思う次第であります。
参加した道場生の皆さん、保護者の皆さん、そして、裏方として祭りを支えていただいている商店会の皆さん、
お疲れ様でした。そして、ありがとうございました!
感謝の押忍!
2009年05月24日
ハロー西荻祭り・演武
posted by 井上誠吾 at 17:58| 日記
2009年05月17日
祭りの準備
西荻窪の商店会の総会に参加した折、
「婦人部なんて、跡を継ぐ人が誰もいないのよ」
総会が終了し、懇親の食事会に入った時、初老のご婦人が、ポツリと洩らされると、
「婦人部だけじゃない。俺たちが死んだら、この商店会そのものが無くなるかも知れない」
と初老の男性が言葉を繋げました。
会席を見渡せば、高齢の役員さんばかりで、56才の小生が若手に入るくらい高齢化が進んでおり、商店会役員の跡を継ぐ人がいなくなっているのです。
地方都市では “シャッター通り”と称されるほど、商店会の空洞化が問題視されていますが、
なんと、東京の西荻窪という繁華街でも「役員の跡継ぎがいなくなっている」という現実に直面しているのです。
理由の一つに、商店会員数は多いけれど、そのほとんどが、テナントの業者、ということもあるのでしょう。
お付き合いで商店会員となり、会費は払うけれども、商店会活動には参加しない、という人が増えているのです。
高齢の役員さんたちは、祭りはもちろん、様々な行事があるたびに老いた体に鞭打ちながら活動されています。
赤色灯を手に交通整理をしたり、
ハシゴをかけ、高いところに登って作業したり、
道路に貼りついたガムを清掃器具で取り除いたり、
夜間の街をパトロールして防犯活動をしたり、
と、高齢の役員さんたちは、目に見えないところで、地域への貢献をされているのです。
これまで誠真会館として、夜間のパトロールに参加し続けてきたのですが、新宿支部の開設により、参加はしたいけれど日程が合わない、と忸怩たるものがあり、反省しています。
その、せめてもの“償い”というか、”お詫び”というか、
”共に参加する喜び”というか、様々な思いが込められての祭りであります。
何人かの役員さんから、
「子供たちが祭りを盛り上げてくれているので嬉しい」
「子供たちが元気いっぱいにやる演武が微笑ましい」
と有り難い言葉をいただいております。
懇親会が終わった後、前述の役員さんが、
「30年後の商店会は、どうなっていることやら・・・」
と、別れ際に言われた言葉が気になりました。
街を明るくしている街路灯は、商店会が管理しています。
もし万が一ですが、商店会という組織が消滅したなら、
街路灯も消え、防犯面で不安が生じるくらい、街は暗くなることでしょう。
今、高齢の役員さんたちは、一週間後の祭りへ向けて準備をしています。
多くの人たちに祭りを楽しんでいただく事が、商店会の役員の皆さんの、遣り甲斐にも喜びにも通じる、というものです。
5月23日(土)午前11時・西荻窪駅前にて祭りが開始されます。
そして、誠真会館では、正午頃・演武を披露させて頂きます。
誠真会館の子供たちには、
祭りに参加し、
演武で盛り上げ、
地域の人々に喜ばれることの大切さ、を伝えたい!
そう、思っております。
皆さん、時間がありましたら、せびご覧になって下さい。
「婦人部なんて、跡を継ぐ人が誰もいないのよ」
総会が終了し、懇親の食事会に入った時、初老のご婦人が、ポツリと洩らされると、
「婦人部だけじゃない。俺たちが死んだら、この商店会そのものが無くなるかも知れない」
と初老の男性が言葉を繋げました。
会席を見渡せば、高齢の役員さんばかりで、56才の小生が若手に入るくらい高齢化が進んでおり、商店会役員の跡を継ぐ人がいなくなっているのです。
地方都市では “シャッター通り”と称されるほど、商店会の空洞化が問題視されていますが、
なんと、東京の西荻窪という繁華街でも「役員の跡継ぎがいなくなっている」という現実に直面しているのです。
理由の一つに、商店会員数は多いけれど、そのほとんどが、テナントの業者、ということもあるのでしょう。
お付き合いで商店会員となり、会費は払うけれども、商店会活動には参加しない、という人が増えているのです。
高齢の役員さんたちは、祭りはもちろん、様々な行事があるたびに老いた体に鞭打ちながら活動されています。
赤色灯を手に交通整理をしたり、
ハシゴをかけ、高いところに登って作業したり、
道路に貼りついたガムを清掃器具で取り除いたり、
夜間の街をパトロールして防犯活動をしたり、
と、高齢の役員さんたちは、目に見えないところで、地域への貢献をされているのです。
これまで誠真会館として、夜間のパトロールに参加し続けてきたのですが、新宿支部の開設により、参加はしたいけれど日程が合わない、と忸怩たるものがあり、反省しています。
その、せめてもの“償い”というか、”お詫び”というか、
”共に参加する喜び”というか、様々な思いが込められての祭りであります。
何人かの役員さんから、
「子供たちが祭りを盛り上げてくれているので嬉しい」
「子供たちが元気いっぱいにやる演武が微笑ましい」
と有り難い言葉をいただいております。
懇親会が終わった後、前述の役員さんが、
「30年後の商店会は、どうなっていることやら・・・」
と、別れ際に言われた言葉が気になりました。
街を明るくしている街路灯は、商店会が管理しています。
もし万が一ですが、商店会という組織が消滅したなら、
街路灯も消え、防犯面で不安が生じるくらい、街は暗くなることでしょう。
今、高齢の役員さんたちは、一週間後の祭りへ向けて準備をしています。
多くの人たちに祭りを楽しんでいただく事が、商店会の役員の皆さんの、遣り甲斐にも喜びにも通じる、というものです。
5月23日(土)午前11時・西荻窪駅前にて祭りが開始されます。
そして、誠真会館では、正午頃・演武を披露させて頂きます。
誠真会館の子供たちには、
祭りに参加し、
演武で盛り上げ、
地域の人々に喜ばれることの大切さ、を伝えたい!
そう、思っております。
皆さん、時間がありましたら、せびご覧になって下さい。
posted by 井上誠吾 at 16:42| 日記
2009年05月09日
アレもコレも他人のせい?
「あの人せいで失敗してしまった」とか、
「あいつのせいで不幸になってしまった」とか、
人というものは、
ついつい自分のことはさておき、
何かにつけて、他人のせいにしたがるようです。
かくいう小生も、このブログでは、
「政治家が悪い」だの「官僚が悪い」だの、と人のせい、
特に、「公僕」と称される人々に関しては非常に辛辣な言葉を投げかけ、時には毒づいております。
しかし、なんら反省は致しません。
なぜなら、それらは、けっして“愚痴”ではない、と確信しているからです。
期待を込めた「公僕」への進言・諫言であり、
おのれの主張を信じた上での“毒”であるからです。
されど、この進言・諫言というものは、難儀なものがあります。
「諫言は耳に痛し」で、言われたほうにすれば、不愉快さだけが残り、どんなに誠意を込めたつもりでも、否定されるのがオチであります。
小生自身、半生を振り返ると、
立場が上の人に対して、この進言・諫言をしたばかりに、
辛酸をなめさせられた事が多々あります。
我ながら、困ったやつだ、と呆れてしまうほどです。
ま・・・生意気というか、身の程知らずというか、思慮が浅いというか、空気が読めないというか、自業自得、であるのは自覚しております。
しかし、進言・諫言してきたことについては、
忌避されたり、疎外されたり、そのことによって、一時的には孤独になったりもしましたが、何一つとして、後悔はしていません。
悲しいことだけど、悔しいことだけど、そう取られたのなら、
それまでのこと、と納得するしかない。
しかし、見てる人は見ているもので、妙に頑固で偏屈な小生だからこそ、信頼を寄せてくれる人々がおり、今の自分が存在しています。
有難く、幸せなことであります。
それにしても、人の運命とは、どこで左右されるのでしょう。
もしかしたら、他人のせいにして、おのれの不遇を嘆いた瞬間から、始まっているのかも知れません。
確かに、政治が悪い、社会が悪い、世の中が悪い。
右を見ても左を見ても、悪いことだらけの現代社会です。
しかし、それを愚痴にしたところで、良くなるわけではない。
アレもコレも他人のせいにせず、
自分の運命として受け止め、とことん闘い抜いて生きたい。
そう思う日々であります。
実は、そんなことも、武道空手が教えてくれました。
押忍!
「あいつのせいで不幸になってしまった」とか、
人というものは、
ついつい自分のことはさておき、
何かにつけて、他人のせいにしたがるようです。
かくいう小生も、このブログでは、
「政治家が悪い」だの「官僚が悪い」だの、と人のせい、
特に、「公僕」と称される人々に関しては非常に辛辣な言葉を投げかけ、時には毒づいております。
しかし、なんら反省は致しません。
なぜなら、それらは、けっして“愚痴”ではない、と確信しているからです。
期待を込めた「公僕」への進言・諫言であり、
おのれの主張を信じた上での“毒”であるからです。
されど、この進言・諫言というものは、難儀なものがあります。
「諫言は耳に痛し」で、言われたほうにすれば、不愉快さだけが残り、どんなに誠意を込めたつもりでも、否定されるのがオチであります。
小生自身、半生を振り返ると、
立場が上の人に対して、この進言・諫言をしたばかりに、
辛酸をなめさせられた事が多々あります。
我ながら、困ったやつだ、と呆れてしまうほどです。
ま・・・生意気というか、身の程知らずというか、思慮が浅いというか、空気が読めないというか、自業自得、であるのは自覚しております。
しかし、進言・諫言してきたことについては、
忌避されたり、疎外されたり、そのことによって、一時的には孤独になったりもしましたが、何一つとして、後悔はしていません。
悲しいことだけど、悔しいことだけど、そう取られたのなら、
それまでのこと、と納得するしかない。
しかし、見てる人は見ているもので、妙に頑固で偏屈な小生だからこそ、信頼を寄せてくれる人々がおり、今の自分が存在しています。
有難く、幸せなことであります。
それにしても、人の運命とは、どこで左右されるのでしょう。
もしかしたら、他人のせいにして、おのれの不遇を嘆いた瞬間から、始まっているのかも知れません。
確かに、政治が悪い、社会が悪い、世の中が悪い。
右を見ても左を見ても、悪いことだらけの現代社会です。
しかし、それを愚痴にしたところで、良くなるわけではない。
アレもコレも他人のせいにせず、
自分の運命として受け止め、とことん闘い抜いて生きたい。
そう思う日々であります。
実は、そんなことも、武道空手が教えてくれました。
押忍!
posted by 井上誠吾 at 17:04| 日記