2012年03月22日

神波史男先生・安らかにお眠り下さい。



誠真会館の名誉顧問である
神波史男先生がお亡くなりになりました。

優しく、穏やかで、得もいえぬ親しみに溢れた方でした。

病院に見舞いに行った時、
「ま、来週辺りには退院できるんじゃないかな」
とニコニコと笑っておられたのに・・・。
容態が急変し、3月4日、多臓器不全のため逝去されました。

3月4日・・・もう二週間以上も過ぎてからの報告に疑問を抱かれる方もおられるかも知れません。
実は、ご家族のほうから、葬儀は近親者のみで済ませたい、とのことで、あまり公にしてほしくないとの声もありましたので、何人かの黒帯の人達にだけ伝え、ブログに書く時を窺っておりましたが・・・、
逝去の新聞記事を見た人や、何がしかの風聞から、
「神波先生がお亡くなりになったんですね」
との言葉をかけられるようになり,
そろそろブログで報告すべきだと判断を致しました。

78歳でした。
いつかは別れの時がくるとは覚悟していましたが・・・、
いざ、その時を迎えると、言い知れない悲しみや寂しさを思い知らされるものです。

一方で、亡くなった気がしない自分がいるのも事実で・・・、
電話をすれば、「会って飲もうか」と優しい声が聞こえてきそうな気がします。

お酒が大好きな方でした。
小生も好きなので、三日と空けず飲んでいた頃もありました。
話が盛り上がり、朝まで飲み明かしたことは1度や2度ではなく、数え切れないほどあります。

そういえば、神波先生と出会ったのも居酒屋でした。
37・8年ほど前──、
カウンターの隣りに座った二人の客が、
「東映」とか「神波さん」とか話しているのを聞いて、
「もしかして、脚本家の神波史男さんですか?」
と問いかけたところ、ご本人だったのです。

当時、駆け出しの俳優だった小生は、
自分なりに脚本を書き始めた頃だったので、
松田優作氏主演の「あばよダチ公」や「暴力教室」、
さらに「女囚さそり」「0課の女」「新仁義なき戦い」等々で、
スクリーンにクレジットされる「神波史男」という脚本家に注目していました。

まさか、飲んでいる隣りの席でそのような脚本家に出会うとは夢にも思っておらず、やや興奮しながら、神波作品の映画について色々な質問や感想を述べたところ、嬉しそうに応対して下さいました。

以来、近所に住んでいたことから、
二人で飲んでは、映画の話はもちろん、政治、経済、文化、そして空手のこと(神波先生は空手映画も書かれている)、とありとあらゆる話に広がっていき・・・、
人として、沢山の栄養をいただきました。

東京大学を卒業され、
「家宅の人」で第10回日本アカデミー脚本賞受賞、
「華の乱」で第12回日本アカデミー脚本賞受賞、
という肩書きがありながら、
その才能や頭の良さを微塵にもひけらかすことがなく、
常に視線を社会の弱者に向けておられる方でした。

数多くの教え子がありながら、「先生」と言われることが嫌いな方でした。
しかし、小生はあえて、
「先生」と呼びたかった・・・。
お弟子さんたちが「神波さん」というので、
「弟子じゃない井上が先生と呼びたいのに、あんたたちは先生と呼ぶべきだろ」と怒ったことがあったくらいです。

小生は「神波さん」という言い方には、何となく対等意識みたいなものが感じられてしまい・・・。
やがて、親しみ込めて「お父さん」と呼び出すと、「お父さんと言うな、お父さんと」と苦笑いをされておりました。

晴れて、「先生」と呼べるようになったのは、
否、呼べるようにしたのは、
誠真会館の名誉顧問になっていただいた時からでした。
以来、道場で汗を流され、審査会などにも顔を出されていたのですが、シャイな方なので、「人前で何か話すのは勘弁してくれ」と審査会は固辞され、そしてまた体調を崩されたことから、この2・3年は道場で汗を流されることもなくなっていました。

かつては、三日と空けず飲んでいたのに、
昨年は、1ヶ月に1・2回程度しか飲んでおらず・・・、
今年になって電話した時、「ノンアルコールビールで付き合うよ」と会う約束をしていたのですが、病院通いをされているようなので、時々電話をかけて、体調を窺うことだけに留めていました。

78歳・・・!
もう少し、大好きな日本酒片手に、あれやこれやと、
よもやま話をしたかった。

天国では、何度も一緒に仕事をされた深作欣二監督と再会されていることでしょう。
そして、先立たれた多くの脚本家の先輩方と酒を酌み交わされているこてとでしょう。

神波先生、安らかにお眠り下さい。
献杯!



最後まで、長いブログを読んでいただきありがとうございます。
きっと、神波先生も喜んでおられることと思います。
posted by 井上誠吾 at 11:43| 日記