2016年07月30日

障害者殺傷事件、に思う。(長文です)




相模原市の知的障害者施設が襲われ、
19人が死亡、26人が重軽傷を負う、という事件が発生!

容疑者は、
「障害者は生きる価値がない」
との戯言を言っており、
弱い立場の障害者を狙った卑劣な犯行に怒りが収まらない!

小生は、約30数年前、
シナリオ制作の取材で知的障害者の施設を訪ねたことがある。
その施設の職員から、
「施設の実態を映画化してほしい」
との話を持ち掛けられての取材であった。

当時、シナリオを書き始めたばかりで、
声をかけられただけでも嬉しく、創作意欲満々で出かけた。

しかし、その創作意欲は・・・、
知的障害者の現実を目の当たりにして、打ち砕かれた。

この施設には、様々な境遇に置かれている子供たちがいた。
中でも、心を痛めたのは、高校生位の男の子だった。

その子は、重度の知的障害と四肢障害があり、
手すりにつかまって、もどかしそうに手足を動かしながら、
懸命にリハビリに励んでいた。
「あの子はリハビリが辛いけど、一生懸命にやるんです。しかし、両親は、ここに預けたまま、一度も面会に来ていません」
と、職員は悲しげに呟いた。

小生は、施設で暮らす障害を持った子供たちを見廻した。
そして・・・、
当時、すでに二人の子供の父親であったことから、
「もし、自分の二人の子供が、このような障害者だったら?」
と、推しはかったが・・・、
答えなど、見い出せる筈もなく、その余裕すらなかった。

すると、職員から、
「実は、あの子の両親は・・・」
と、一度も面会に来ていない両親の名前を聞かされ、驚いた。
それは、誰もが知っている有名人夫婦の名前であった。

その昔、
名家の子供が障害者として生まれてきたら、
「座敷牢か、蔵の中に入れて、隔離されていた」
という話は聞いたことがある。

ここは昭和版の座敷牢か蔵の中なのか・・・?
いやいや、そんなことはない、とその疑問を打ち消す。
しかし・・・、
有名人夫婦は障害者の子供がいることを、世間には知らせず、
施設にかかる費用だけを送金し続けているらしい。

なぜ、面会に来ないのか・・・?
この子は、見捨てられてしまったのか・・・?
ここは、子供たちの姥捨て山なのか・・・?
小生は、そう思ってしまう己れ自身に自己嫌悪を感じた。

そんな小生に向かって職員が、
「この子たちなりに、何か意味があって生まれてきた筈です。それを見つけ出すことが私の仕事だと思っています」
そして、
「この実態を映画で描き出して欲しいんです」
と、話を結んだ。

小生は、返事もままならず、
生まれて初めての衝撃的な体験に呆然自失となっていた。

施設をあとにして、
見てはいけないものを見てしまった、というか、
見なくてもよいものを見てしまった、というか、
なんとも、表現しがたい重い気分で帰路についていた。

もしかして、有名人夫婦と同様に、
己れの中にも、
臭いものには蓋をする
という傾向があるのであろうか・・・。

書くからには、何回も取材を重ねていく必要がある。
そうなると・・・果たして、あの空気感に適応できるかどうか。
あの現実を見続けていると、自分が壊れていくのでは・・・。
そんな感覚さえ味わっていた。

数日間、悶々とした。

そして、
「自分には、障害者の脚本など書ける力量はありません。
 見識の浅いまま書くのは、障害者の方々に失礼なことです」
と、丁重に辞退した。

今、振り返っても、あれで良かった、と思っている。
とてもではないが、自分ごときに書ける世界ではない。

それゆえに、
あの施設で働いている方々には、
尊敬の念と、とてつもなく深い慈愛と徳を感じた。
そして専門知識をもって、献身的に接する姿には、
ただただ頭が下がる思いであった。

同時に、己れの無力さも、つくづくと思い知らされていた。

あれから、30数年が過ぎて・・・、
今回の事件で、あの頃の記憶が蘇ってきた。

あの容疑者は、
「己れの無力さを知っている」
そして、
「己れが弱くて、夢破れた敗北者であることも知っている」
と、小生は思う。

弱い人間が、
さらに弱い人間を殺傷して、
敗北した自分を認めたくないゆえに、
責任転嫁して、間違った英雄気どりをしてしまった。

裁判官には、判決の際、
「障害者には生きる価値がある!」
そして、
「何らかの意味があって生まれてきた!」
と、彼をたしなめてほしいものだ。

偉人・ヘレンケラーは、子供の頃、
目が見えない、耳が聞こえない、言葉が話せない
という三重苦の生き地獄の中、本能の赴くままに、
獣のように食べ物をむさぼり、野放図に振る舞っていた。

それがサリバン先生と出会い、あらゆる困難を克服し、
やがて、あのように社会に有益な人物となった。

ヘレンケラーは、
地獄の中から、一筋の希望の光を見い出すと、
物事を楽天的にとらえるようになり、
強い好奇心と精神力で次々と壁を乗り越えていった。
そして、
「人間には、人類が有史以前から経験してきた、
印象や感情を理解できる能力があるように私には思われる。
だから、たとえ目と耳を失っても、
この過去からの贈り物を奪うことはできない」
との言葉を残している。

ヘレンケラーは、永遠の魂を実感していた、と言えるだろう。

「人間は、今世だけではなく、永遠の生命・魂を持っている」
と、小生は思っている。
何を隠そう、
これは、偉人・賢人・聖人たちからの受け売りであるが・・・。

簡単な話、
「悪いことしたら、あの世で閻魔さんに舌を抜かれるよ」
と、爺さんや婆さんが言っていたことと同じである。

こんな、ごく簡単な哲学が、
利己主義で拝金主義な今の時代には通じなくなってきている。

あの容疑者が、
障害者・ヘレンケラーの不屈の生き様
人はみな、何か意味があって生まれてきた
ということを理解できていたなら、
今回のような事件を起こすことはなかったのではないだろうか。

仁とは、人への思いやり。
先ず、なすべきことは、困っている人のために動くことである!

もっと語りたいことがあるが・・・この辺で。
最後まで読んで頂き、
感謝の押忍!






posted by 井上誠吾 at 12:30| 日記